劇評:冨士山アネットproduce 『EKKKYO-!』(その2)
・冨士山アネットproduce『EKKKYO-!』1月17日 東京芸術劇場 小ホール1 マチネ(その1より)もっと言ってしまえば、この舞台には送り手が自ら思考するという意味の痛みがなく、終始安全地帯に身を置く狡猾な面がある。「選択権はあなたにあるのです」というあえて挿入される注釈は、作り手を観客よりも優位点に立たせる。なぜなら、全ての行動が観客次第という文言は、指示に従う/拒否する観客をあらかじめ想定した上でないと出て来ないものであり、何をやっても作り手が用意したプログラム内へ回収されることが規定されているからである。決してその文言は舞台理解のための優しいエクスキューズなどではない。したがって「芸術家、作品、観客の新たな関係を提示」から反した観客不在のものだと言わねばなるまい。表面上は全権が観客に委譲されているように見せかけ、自身は安全地帯へと身を置くという構造は、一頃流行し昨今、若者のみならず国民総体が受け入れざるを得ない「自己責任」の様相に限りなく近似的である。それが私には無責任な国家の似姿のように映った。この後、舞台は「自己責任」的なものへとますます突き進んでゆく。後半といって良いのか分からないが、舞台空間はそれまでとは明らかに異なり賑やかになる。ミラーボールが回り、照明が派手になり、BGMとして『We are the world』が流れる。だが、誰も登場しないし、「立ち上がってください」とった指示も依然として投影される点は変わらない。むしろ指示はエスカレートし、矢継ぎ早に投影され、文字がどんどん重なってゆくくらいだ。そこに、再度重要な文言が投影される。「これはみんなの問題です」といった内容がそれだ。それが含意する意図は、この舞台の成功は観客一人一人の参加(指示に従う)次第であるという意味と、『We are the world』という音楽が孕むメッセージとの両方の意味が込められている。さらに、「歌ってください」「リズムをとってください」といった新たな指示も加わる。空疎な空間に、色とりどりの照明と音楽で満たされてゆく様に居心地が悪くなるのは、「みんなの問題です」と訴えることで、観客の自由意志に任ているように見せながらその実、彼岸の位置に立つ当の作り手が観客を先導しようとしているからである。飢餓と貧困を救うキャンペーンソングとして、全米の有名歌手が一堂に会して大ヒットした『We are the world』のように、この空間に集った者皆が参加して実りのある一時にしようぜ、というわけだ。これが煽動でなくて何だろう。そして、戯曲→俳優→観客と意味内容が伝達される「普通の演劇」とどこが違っているのかと問いたくもなる。このノリと雰囲気に付いてくるかどうかはお前ら次第だよ、だけどノッた方が楽しいし意義のある時間になるぜ、冷めてる奴がいることくらいこっちはあらかじめ想定してるしね、とクラブカルチャー=イベント的な展開が充溢する空間。これは物凄く姑息なやり方ではないだろうか。ショーケースというパッケージングがこの公演全体のコンセプトだとは既に記した。それを最も体現しているのが、これまで見てきたCASTAYA Projectの公演なのである。そして私はイベント≠演劇だと考える。だから、「いろんな人がいる。その違いを認めよう」「サンキュー」と文字が投影されて終わるこの公演に欺瞞を感じる。作り手は、こうあってほしい道筋へ観客を煽動するようにプログラムを組み、そして、それに反発する観客すら「自己責任」で突き放すのだ。そして最後に「みんな認め合おう」の文言によって肯定・否定派を丸ごと回収し、前衛っぽいものに仕立て上げる。そこには観客不在と、とことん自らを高みに置く思想が基底となっている。そのことへの欺瞞だ。この公演には、高度資本主義化し方向性を見失った現代社会が、半ばお手上げ状態となった末に取る苦肉の策が凝縮されていると言っても良いだろう。文字投影されるエクスキューズは優しさを装った、排他的共同性の形成にしか寄与しない。そして、それとは知らずノッた人間を知らず知らずの内に煽動するという構図はまさに環境管理型権力と呼ばれるものであろう。そんな社会の表層の反映をわざわざ舞台上で再生産せずとも我々は嫌というほど痛感している。舞台上で高みに立つ作り手自身も、一歩劇場の外を出ればその渦に翻弄されることは間違いないはずだ。ただ少なくとも、作り手は「普通の演劇」的な在り方から距離を取ろうとしたはずだし、現代演劇が現代社会において生成される以上、取ろうとする距離は社会との違和がそのベースとなっているはずだ。そこに風穴を空けるべく試みられたものが「フツーお芝居」へと堕してしまうことこそ、我々は考えなければならない。距離を取ろうとすればするほど、いつの間にか元の構造へ引き戻されてしまうという困難さ。単なるショーケース的な陳列はそれに同調することにしかならない。CASTAYA Projectの後に登場したモモンガ・コンプレックス『モモンガ・コンプレックスのこころづくし。(今年の抱負です。)』は、様々な演劇形式(ミュージカル・静かな演劇・バレエ)のカーテンコールの違いをダンサーが模写するというものであった。観客と作り手の共通コードは用意に取り結べるために楽しい公演ではあったが、カーテンコールを劇化するという性質上、こちらでも観客に終始拍手をさせる。作り手と観客との共通コードによってネタ的に作品を消費するのも、一般の演劇空間と何も違わない。作品の成否は、どれだけ視点をズラして新しい着眼点を見つけるかという差異のものさししかここにはない。ライン京急『ナターシャ・キンスキー』と岡崎藝術座『アフターデイズ/HOLD YOUR HANDS』は、分かる奴だけ分かれば良いという方向性を意識的に選択した作品で、観客とのコードは無視されていたが、ウケない、スベルことを盛り込んでというか、関係なしに暴走的に突っ走ることに居直ったものであった。モモンガ・コンプレックス/ライン京急・岡崎藝術座の2つの方向性は、CASTAYA Projectに同時に見受けられる。そういう意味でCASTAYA Projectは象徴的な存在であった。残りの2団体は、家族間の様々な感情をアクロバティックなダンスによって表現し、物語を駆動する冨士山アネットの『証明∴』と、小学生のあゆみとその友達のある日、ある時間の些細な出来事を3人の俳優が入れ替わりながら執拗に繰り返し描いたままごとの『あゆみ -EKKKYO-! Remix-』。特に、誰もがフラットに移入できるよう、役柄を匿名存在にし、尚且つ円環するループのような劇構造にすることで極小の空間に宇宙規模の広がりを現出させたままごとが表現した切ない物語は秀逸だった。両者から感得したのは、ある種の抵抗となる明確な物語があることで、その外側へ踏み越えようとする契機になるということであった。我々が見据えねばならないのは、何をしても岩盤な磁場に足元をすくわれ引き寄せられてしまうという、自由という名の拘束を纏った状況への自覚であろう。