映画評:『愛の茶番』
愛による救済を求める「渇望者」たちの群像 性愛を軸にした物語を、歌と踊りのレビューを交えて描いてきた劇団毛皮族(2000年~)。劇団主宰者の劇作家・演出家の江本純子は、2016年に『過激派オペラ』で映画監督デビューしている。この度、監督2作目である『愛の茶番』が12月7日から渋谷ユーロスペースなどで上映される。江本はシナリオ・監督・編集・製作・出演をこなした。本作はタイトルや後述する創作手法が示す通り、愛に飢えた者たちの滑稽な姿が描かれる。映画美学校での試写(11月7日)を観た評を記したい。 浮気性で何人もの女性と関係を持つリョウスケ(岩瀬亮)に捨てられたルミ(遠藤留奈)が、彼を忘れられないままキヨヒコ(金子清文)と出会って結婚する。物語は、ルミがリョウスケと付き合っていた頃から現在までの回想である。その物語の中に、リョウスケの数ある浮気相手の一人・リエ(菅原雪)、ルミの元セフレ・スミオ(吉川純広)、リエの恋人・トモタロウ(美館智範)が登場する。一方、ルミにはシンガーソングライターの妹・アキ(冨手麻妙)がいる。姉妹は波長が合わない。だがルミは、アキが行なうライブやボクササイズ、『新婚さんいらっしゃい!』を模したMCの番組に出演するなど、ストーカーのように妹につきまとう。ルミが神のような魅力を感じてキヨヒコに惹かれたように、アキもスピリチュアルな冒険小説家のK(藤田晃輔)の手玉に取られて婚約。そのためにマネージャーのドンコ(江本純子)を困惑させる。物語が進む内に、ルミとアキそれぞれの人間関係が交わって複雑化してゆく。その様は、愛に飢えた人間の欲望が一体となって肥大化したような印象を与える。結局は似たもの同士だったルミとアキが、絶対的に安心できる救済者や安住の地を、最終的にどこに求めるか。彼女たちのとりあえずの答えが、結末に下される。 ルミの回想から物語が展開されるため、オープニングとラストシーンでの現在を描く映像以外は全てモノクロで撮影されている。台詞には英語字幕が付き、各シーンの前にはこれから起こることを、あらかじめ説明するト書きが挿入される。そのために全体的には、レトロな外国の無声映画のような雰囲気が漂う。映画の導入はルミの回想ではあるものの、彼女の視点から描かれる物語ではない。登場人物が誰と何をして何を思ったのかというト書きがアナウンスされるために、第三者の視点で彼らを一人ひとり俯瞰して描いてゆく。シーンの時系列がシャッフルされている上に、役名と俳優が一致しない序盤は、複雑な人間関係を掴みにくく混乱する。だがそれによって、絶対の愛をもとめてぐちゃぐちゃになったりルミの脳内や前後する記憶、万華鏡のように変化する人間模様をそのまま体験しているような気分にさせられた。 本作のもう一つの特徴は、様々な出来事が北千住にあるアートスペースBUoYで撮影されている点だ。2017年にオープンしたBUoYは元々、2階はボーリング場、地下が銭湯だった。共に広い空間だが、2階がカフェ、ギャラリー、稽古場スペースに、大浴場や洗い場を残した地下は劇場空間となっている。コンクリート打ちっぱなしの無機的な地下空間で、ほとんどのシーンが撮影されている。そこに洋服店や登場人物の部屋、居酒屋、スーパー、クラブといった場所が、その都度、舞台美術や小道具を設置して演じられる。この撮影方法は、床に白い枠線と建物の説明を入れただけの舞台セットで、村で起こる出来事を撮影したデンマーク映画『ドッグヴィル』(2003年)を想起させられる。だが『ドッグヴィル』との違いは、画面内で起こる出来事を、椅子に座る観客が観劇していることだろう。本作は、より演劇的な見せ方を強調した作りとなっている。加えて本作における観客は、単に物語を見守るだけではない。一部のシーンでは、出演者になる観客もいる。俳優と空間を共有する観客もまた、共同創作者であり「渇望者」なのだ。 このような設えの下で創られた映画には、スケッチのように様々なシーンが展開される。私が特に印象に残ったのは、ライブを終えて物販するアキとドンコが、客として入れたサクラですら誰一人CDを買ってくれないことで、2人が口喧嘩するシーン。また、何も展示物がない美術館で出会ったキヨヒコに惹かれたルミが、静かに会話を交わしてお互いを探るシーン。このシーンは、ルミが最後に真っ白な壁に張り付いて終わる。2つのシーンには、日常にありそうなリアルな会話の面白さと、シュールな笑いの両極端が表現されている。特に後者の笑いは、北野武の映画を思わせる、余分な説明を省いてシーン同士をつなげる編集の妙によってもたらされる。こういった笑いが、本作にはたくさん散りばめられている。 個性的でクセのある俳優陣は皆魅力的だが、何よりもアンニュイな雰囲気のルミを演じた遠藤留奈の存在が大きい。いつでもどこでもリョウスケと濃厚なキスをしてスキンシップをしては他人に見せびらかし、クラブでははっちゃけて騒ぐ。その反面、リョウスケに捨てられた後は、鼻水を垂らしながら号泣したりと感情の起伏を表現してみせる。さらにオープニングでのいきなりの裸体を含めて、たびたび下着姿になって生々しい肢体を画面に晒す。身体全体で愛に救われたいルミが、次第にいじらく思えてくる。簡素かつオシャレな画に、遠藤は臭い立つ色気や粘膜感を与えていた。 映画内で物語に立ち会う観客と、それをスクリーン越しに眺める映画の観客。視線が二重に客観化されることで、ルミを含めた人物の滑稽で愛らしい姿を、我々は距離を持って眺めることになる。と同時にその愚かさと愛おしさは、観客を含めた人間自体のことだと気付かされる。