|
カテゴリ:劇評
現在形の批評 #5(舞台)
・大人計画『キレイ』 8月12日 シアターBRABA! ソワレ 90年代、サブカルチャー路線の作風でナイロン100℃と共に「静かな演劇」とは一線を隔した活動を続けてきた大人計画。今や確実にエピゴーネンが増え続けるほどメジャーになった劇団の初見。はっきりいって楽しんだ方ではない。方ではないとは曖昧な表現だが、その曖昧さは作品自体にも言えるからだ。 三つの国に分かれ、100年もの間、民族紛争が続く“もう一つの日本”。民族解放軍を名乗るグループに誘拐され監禁されていた少女(鈴木蘭々)=成長したケガレ(高岡早紀)が10年ぶりに地上へ逃げ出す。記憶を失った少女は自らを<ケガレ>と名乗り、出生の秘密を探りながら本当に<キレイ>と呼べるものを求める「ミュージカル」。 作品の骨格はかなり骨太な戯曲が根底になっているのだが、ミュージカルに肝心な歌が効果的に役割を担っているように思えず、笑いを誘うため、また、劇場を照明と音響でいっぱいにし、観客をそれなりに満足させるためだけにしかその機能を果たされていない。 それは役者についても言えることである。いわゆる個性豊かなキャラクターとギャグで溢れ、 全体を笑いで引っ張ってはいるが、役者の表情も身体の厳密な状態も分からないくらい後方にいた私にはどうしてもその面白さが伝わってこないのだ。鈴木蘭々と阿部サダヲが光っていたぐらいでその他の役者に至ってはかつてビデオで観たキャラメルボックスの役者のように台詞の洪水を浴びせてくれるだけである。 座った位置が問題だったのか。そんなことはない。かつて大阪MBS劇場として、劇団四季の常打ち小屋だった時に観劇した『アイーダ』はそんなことは思わなく、オペラグラスを用いた程、後方に座したが十分に楽しめるものだった。あらゆる音波が席に座っていても身体に伝わってくる感覚はさすがと唸ったほどだ。確かに遠くから見ていることには違いないが、物理的に身体に何かしらを感じさせることによって舞台との距離を内在的に縮めていた。 大劇場での公演の最大のリスクはこの距離にあると言って良い。舞台は全ての観客を等価に観る情報、体感する熱気を提供するべきである。多少座る位置によって観え方が変わるとしても小劇場ではまずそういった事態は起こらない。 鈴木忠志の言を借りれば「非動物性エネルギー」に集約される舞台機構の仕掛けに頼らざるを得ない大劇場での公演に不可欠な、情報を伝達技量が明らかに不足していたと感じさせられた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 11, 2009 02:54:32 PM
|