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Oct 19, 2005
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カテゴリ:書評
現在形の批評 #14(書評)

別役実 『ベケットと「いじめ」』

ベケットと「いじめ」

関係性の中の「孤」


 刺激的な本に出会った。二〇〇五年八月、白水社から刊行された別役実著『ベケットと「いじめ」』がそれである。
 別役実はアングラ演劇と呼ばれる、一九六〇年台後半以降に演劇活動を開始した運動家の一人である。鈴木忠志と共に早稲田小劇場を結成し、『マッチ売りの少女』や『象』などの不条理な作品を書いている。また、軽妙な文体の中にも鋭い指摘を突いた犯罪批評や、ユーモアエッセイも書いている。アングラ演劇の果たした役割については全号の拙稿(『現代演劇の変遷と問題』)を参照してもらいたい。そんな別役が作劇において最も影響を受けたのが、本書でも論じられるアイルランド出身の劇作家サミュエル・ベケット(一九〇六~一九八九)である。彼の不条理演劇の代表作『ゴドーを待ちながら』は二〇世紀、世界の演劇を根底からひっくり返す衝撃を与えた。日本もまた然りである。
とまあ、予備知識として著者と論じる対象者の簡単な解説もそこそこに、いよいよ本書の書評を中心に評論めいたものを書き付けていこう。
 本書は一九八七年に同じく白水社から刊行されたものの新書版である。後に述べるが、この時期に新装されたのにはちゃんと意味がある。前半部分は昭和六一年、富士見中学校で起きた「いじめ事件」を基にして人間というものがいかように変化したのかを分析し、八〇年代当時でいう現代の相貌を読み解く。後半部はその辺りの変化を、ベケットが既に一九五〇年代に行った作劇にその片鱗が見られると指摘し、演劇との考察を試みている。
全体を貫いている主張を言ってしまうと、〈現代社会は「関係性」に捕らわれている世界〉ということである。本書は優れた現代のフィールドノートであり、演劇理論書でもある。
 「関係性」とは何か。富士見中学校で「お葬式ごっこ」をされ、果ては自殺した学生(鹿川君)は、「いじめ」た者に対して「なぜこんなことをしたんだ」「だれがこんなことをしたんだ」と意見したり、対立・ケンカをしない。もしかするとそういった行動を起こすことによって「いじめ」が沈静するかもしれない。しかし、鹿川君は「何だこれー」「オレが来たらこんなの飾ってやんのー」と言ってしまう。これは明らかにおかしい。状況を受け入れ、肯定する発言だからである。別役によると前者は「個人」というものを前提としているからこそ意見をし、状況を変革する可能性を含む存在としての人間を見る。つまり前/近代的な人間観である。しかし、現代では「個人」が主役なのではなく、「いじめ」を成立させている関係、「葬式ごっこ」が成立させるアトモスフィアー、この「関係性こそが主役」になっていると述べる(二五頁)。こういった状況下では、前/近代的な個人として発言することは「関係性が主役」であるから、その言葉の意味が形骸化する。つまり浮いてしまうだけになる。できることは不覚ながら「関係」を成り立たせる〈場〉に同化し、自虐的になることしか残されていない。

 「個人が主役ではなくて関係が主役になってしまっている。おそらく「お葬式ごっこ」の状況はそうだったろうという感じがする。関係が主役で個人がなくなって、それぞれが「孤」になってしまっている場合は、そこに作用している意図、その中にどういう傾向があったにしろ、悪意があったにしろ、冗談があったにしろ、それは全部無記名なものになっている。関係のものになっている。個人のものとして機能しないで無記名のものになっている。」(七七頁)

 別役の指摘した状況は極めて「いま」の合致する。例えば、言い訳をするときや何かに感動した時を思い浮かべて欲しい。その内容について一生懸命言葉を尽くして説明すればするほど、伝えたい思惑とズレが生じて空疎なものになってしまうときがある。それを本書に則って考えれば、言葉がそれ自体で意味を内包してるものではなく、ただの「もの」として「物質化」しているからである。

「言葉というものがなぞった、たとえばスキャンダルのフォルムと運動、それがどう存在しどう動いたかということだけが問題となる関係。この場合の言葉はほぼ「もの」みたいな感じですね。言葉の物質化が行われている。従来の言葉の物質化というのは、意味性よりも音韻性みたいなところを重視して、それが物質的にわれわれの生理にどう作用したかというようなことを問題にしますが、それとは違う意味で言葉が物質化されているという感じです。」(一二九頁)

 「いじめ」られた者がそれを克服するために思いのたけを対象者にぶつける、この発語者と発語された言葉とが不可分に釣り合った状態、言い換えれば精神と身体の統一。これは近代に発見された人間の内面であり、近代演劇=新劇が目指し、実践してきたことである。
「個人」が「孤人」でしかない「関係性」優位の社会構図を、別役はベケットの『行ったり来たり』『わたしじゃない』『息』の三つの戯曲に見ている。私たちがベケットの戯曲を読んだ感想は往々にして「ナンセンス」や「不条理」といった認識であるが、そのような観念は本書で行われる極めて数学的・論理的な分析によって音を立てて瓦解する。この過程は胸がすく思いになる。ベケットの不条理劇は不条理でもなんでもなく、不条理なのは現代社会であり、その情況を生きる私たち自身もまた不条理な存在なのだ。ベケットはエンターテイメントとしての演劇に付加される一切の要素を取り除き、〈方法としての方法〉を実験しただけなのである。本書が優れた現代のフィールドノートであり、演劇理論書といった事由とはこういうことである。
 すると、本書が二〇年近くを経て再び刊行された理由も見えてくる。九〇年代以降の私たちが生きる同時代を振り返ってみると、阪神大震災・オウム事件・少年犯罪・援助交際・無差別テロ・小学生による殺人・ネットを使用した集団自殺、及び殺人事件。ここに挙げた様々な事件・事故は「関係性が主役」である社会環境を「孤人」として生きる人間の変容の末に起こったものと見ることは可能ではないだろうか。
出版された八〇年代よりもさらに私たちは存在不安に陥っており、人間は自己を支配する様々な関係性に身を置いて、皆と同じ意識感覚(こういったのが大衆迎合を生む要因でもあろう)を持たなければつまはじきにされる社会に生きている。ネットの存在はその典型である。文字という名の「物質」が氾濫した中では、温かな・豊かな人間性を回復することはもはや絶望的である。キーボードに文字を打ち込む人間と打ち出された文字=物質とは乖離している。ネットが支配する関係は「無記名性」であるがゆえ、いくら他者を攻撃しようとも生身の身体が傷つくことはない。それは某巨大掲示板や、静岡県で最近起こった娘による母親に対する毒殺未遂事件で、実験という名の殺人記録をブログに書き込んでいた事実がはっきりと証明している。情報の行き来と仮想のコミュニケーションは逆説的な閉鎖性を生み出す結果をもたらした。
そんな中で演劇が果たす役割とは何か。九〇年代以降の小劇場演劇の特徴として松井周氏は、「(演劇は)人間を一度、ヒト科の動物として捉えなおし、その習性や反応などの「外面」を観察」するものが隆盛であり、それは「観客の視点を超越的な視座へ高めてくれる効果」があると述べる。(注)平田オリザ的ないわゆる「静かな」演劇はまさしく先日したネット上での傍観姿勢と合致する。いくら演劇は社会を写す鏡だとしても、これでは現状報告・現状観察日誌以上ではない。現実の〈情況〉を〈結果〉としてぽんと提示するのではなく、創作者側が積極的にその〈原因〉と〈問題点〉を探り、風穴を空けるくらいの気概が必要だろう。時に誤読したっていいではないか。私たちは何も演劇に新劇的啓蒙を求めてはいない。演劇というフォルムを使い、どう有機的に〈思索〉したのか、その軌跡に触れたい。そうでなければアナログな演劇をする意味性がないではないか。
 本書の締めくくりは、ベケットの戯曲からの脱却は可能かを問うている。事態がより深刻さを増した現時点ではますます困難な相談である。

注 『ユリイカ』 青土社 二〇〇五年七月号所収 松井周「ポスト「静かな演劇」の可能性」






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Last updated  Dec 14, 2005 03:37:30 PM



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