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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #17(舞台)
・デス電所 『音速漂流歌劇団』 ![]() デス電所は1996年、竹内佑を中心に近畿大学の学生で結成された。 2000年「キャンパスカップ」優勝。 5つの扉がシンメトリックに並んでいる。かなり頑丈に作り込んでおり、その模様はトランプの柄のような瀟洒な趣がある。この非日常的な舞台美術が示すように、デス電所の舞台は幻想的な物語を主軸としながら、ふんだんに漫才のような笑いと歌とダンスを盛り込む手法を採る。 主演の山村涼子の演技が冴える。山村は今回も少女を演じ、アニメオタクの義理の兄に殺される役所である。不幸な状況を明るく活発な性格が故のけなげな振舞いがかえって悲劇を際立たせる。もっとも、『おしん』のような耐える少女は日本人が最も好み、感情移入しやすい人物造形であり、要するに通俗的な役柄とも言えるだろう。シリアスな場面が一転し歌とダンスが始まり、山村演じる少女もノリノリで歌い踊る。緩急の落差が発するけなげさの増幅がデス電所が劇構造の中心に描く少女性の哀しみである。 かつて鈴木忠志は「女性ほど自分の背後に大きな暗闇を背負っているものはない」(内角の和)と述べた。男は狩猟を行っていた太古の昔から現代に至るまで、常に社会へ目を向けさせらた存在であるのに対し、女性とはつねに抑圧され、家を守り子供を育てるという歴史を歩んできた。つまり、男性は「見る性」であり、女性は「見られる性」なのである。見られる性である女性は、自身の置かれている不利な立場を客体化し自覚的にならざるを得なく、そこからの開放運動によって社会進出を獲得してきたのだ。男性の意識は迷うことなく一本芯が貫かれているのに対し、周り道を余儀なくされてきた女性だからこそ、意識化されない「闇」が存在するのだろう。芸術活動を行う際においてもこのような性の歴史的な「闇」が肉体・言葉から迸ることで、観客へある種の感覚を伝染させ得ることが可能になるのだ。 少女はアニメオタクの義兄に殺される。山奥に投棄された冷蔵庫に遺棄されたために、蠅がビッシリと取り付き、純白のドレスは真っ黒に染まる。冷蔵庫を空けるやいなや、人形が転がり出て同時に、耳を劈くようなハエの音、そして飛び立つ無数のハエを映像で映し出す。印象に残るシーンであるが、少女でなく人形であることが明らかに分かってしまうのには不満が残る。ハエを映像でなく例えば、小さい黒いボールがドッと出た方が効果的だったろう。なぜなら、そのことでもしかしたら切り刻まれ、腐乱した少女の身体と錯覚したかもしれないからだ。視覚以上に生理的違和感を創出させることがここでは必要だったろう。 クロムモリブデンの舞台とデス電所はスタイルが似ている。改めてデス電所を観て思ったのは歌・ダンス・笑いという表層的なものは似通っているが、劇団が志向するものには明確な違いがあるということだ。 クロムモリブデンは『ボーグを脱げ!』のように(詳しくは9月14日の日記を参照)具体的な物からイメージを紡ぎ、人間も物と同様で確固たる内面、意識などは喪失したものでしかないという極めて現在的なテーゼが込められている。 対するデス電所はこれまで見て来たようにおよそ作風は真逆である。人間関係の不安定さを描いてはいるが個人の意識、すなわち人間の情念や心理の綾を描く点で人間性がまだ存在している。それが、クロムのように大状況へと接続されず、小さなコミュニティ内の事象を描くことに終始するかの違いを齎している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 11, 2009 03:04:49 PM
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