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Jan 23, 2006
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #18(舞台)

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燐光群 『スタッフ・ハプンズ』

1月20日 下北沢ザ・スズナリ ソワレ

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1 本多劇場グループ


約2ヶ月ぶりの観劇は東京で。下北沢の「ザ・スズナリ」という小劇場は1981年会場の老舗小劇場である。小劇団はこの劇場で公演を打つことが一つのステータスになり、将来を左右する判断材料となっているほどだ。それは数多くの有名劇団、演劇人がその後中・大劇場へと進出した例が示す通り、一種の勝ち組パターンへと繋がっているからである。今や大家の三谷幸喜が率いた東京サンシャインボーイズ(現在充電中)がスズナリで公演を行ったのは結成3年目の86年。作品は『ビリケン波止場のおさらばショップ』


ザ・スズナリは本多一夫による下北沢劇場街計画の端緒となった劇場であり、その後現在までにザ・スズナリ、駅前劇場、下北沢「劇」小劇場、OFFOFFシアター、本多劇場、横浜相鉄本多劇場という6劇場からなる本多劇場グループを構成するに至っている。下北沢を「日本のブロードウェイ」と呼ばれるまでに劇場の街に成長させた本多一夫はアーツマネージメントの先駆けである。


劇場側面に備え付いている階段を上る。なるほど、アパートを改造した劇場らしい名残が残っている。上がって右手、すぐ目に入るのはロビー。雰囲気は温泉宿である。そして、廊下を挟んで左手に、1階までくり抜いた劇場空間が広がっている。全面桟敷席であった昔とは違い、椅子席になっているものの寄席小屋のような、大衆文化的な香りが漂っている。さて、いよいよ開演である。



2 上質なメタシアター


この作品は構造として横たわっている演劇についての演劇、メタシアターが上質な形で提示されている。しかし、メタシアターと言っても複雑怪奇で観客をあざ笑うかのように混乱させるものでは決してない。至極全うにストレートプレイながら、物語を現実原則へ引き寄せるための設定にメタ構造がうまく使われているのだ。


『スタッフ・ハプンズ』は作者デイヴィッド・ヘアー自身による、「ごく最近の歴史を中心に据えた歴史劇であ」り、「この戯曲の中の出来事は、公的、私的、双方のさまざまな情報源から出ているものだ。」(上演パンフレットより)との言葉通り、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロから2003年月3月19日のイラク戦争を経た同年7月13日、イラク統治評議会発足までを、ジョージ・ブッシュはじめ、コンドリーザ・ライス、コリン・パウエル、トニー・ブレア、コフィー・アナンといった実在する政治家達を登場させて問うドキュメント劇である。密室で交わされる政治家の丁々発止のやり取りを可能なまで現実に即して再現している。


当然俳優はそれぞれの人物を演じるわけだが、その中で「俳優A・B・C」という役柄を担う俳優がいる(大西孝洋・江口恵美・中山マリ)。アメリカとイギリスを中心とした政治家に主眼を置いているためか、はたまた出演者が膨大になることを回避するためであろうか、この「俳優A・B・C」は劇の進行役(ナレーター)を努めながら、時に市井の人、大統領夫人、あるいはフランスのシラク大統領等、一歩引いた視点で劇状況を整理する狂言回しの役割を果たす。つまり、この3人は固定の1つの役を演じていないため、そしてナレーターを担当するために、あらかじめ舞台はフィクション・虚構を前提としたものであることを観客に了解させる異化効果を明瞭にする。となると、ブッシュも(猪熊恒和)ブレアも(杉山英之)も当然だが、演じられた人物であることを今一度確認することになる。もっとも、よもや本物の人物だと思う観客はいないだろうが、感情移入させることよりも風刺性に重きを置くこの種の舞台には、慎重に前提事項を仕掛ける必要があるのだ。(演者が日本人にも関わらず新劇的に真面目で本物らしく振舞うほど滑稽なものはないのだし)


坂手による演出はこの戯曲構造をさらに利用する。舞台は有刺鉄線で囲まれ、木箱・タイヤ・ドラム缶や樽が乱雑に置かれた空間。具体的な国は分からないが、郊外のカウボーイが集まる隠れ小屋といった所である。世界情勢がどちらに転ぶか鬼気迫る国際会議や米首脳陣の会話がこの汚らしい小屋で行われる。この小屋は、イラクが所有する大量破壊兵器の根絶という大儀を掲げるアメリカの正義が結果として強硬で偏狭な理念でしかないにもかかわらず、間違った意思に突き動かされた者の密談場所の謂いである。だから、この空間はアメリカを中心とした国々がやがて閉鎖的思考へ傾斜してゆく雰囲気を端的に表象しているのであり、高級な立場である政治家が薄汚れた場所でやり取りするという物理的なミスマッチによって、他者を排除しこせこせと密約を図る政治家達の滑稽さを際立たせるのである。そのことは彼ら自身、手にする物が日曜工具やスプレーだったり、重要事項の会議中に突然ランチを取ろうとする妙な余裕と言おうか、サークルの集まりのような仲間内の余興のようなのんきな姿によって乾いた笑いを誘う。この辺の視覚的な演出は巧みである。


中でも滑稽さにおいて秀逸なのはトニー・ブレア(杉山英之)の存在である。彼は終始舞台下手に備え付けられているロッカーの中から出入りする。イギリスはアメリカと同盟国でありながら、オサマ・ビンラディンの居所をイギリス軍単独で突き止めた際にアメリカ側の支持を要請された事実が示すように、所詮追従者でしかなく、あまつさえ主導権を握ることは許されない操られ者である。狭いロッカーに閉じ込められ、外から開けられなければ(アメリカからの必要が生じなければ)出てくることも不可能なブレアは、この劇構造の特徴及び人物関係を鋭くそしてシニカルに体現している。


私は燐光群の作品ではこれまでにも、コックピットのボイスレコーダーから飛行機墜落事故を検証する『CVR』や、冤罪事件を取り扱った『ときはなたれて』といったセミドキュメント劇を観劇している。いずれも「その時その場所」で一体何が行われてきたのかを「告白」という手法で表現している点においては『スタッフ・ハプンズ』を取り上げたことも納得できる。だが、先に挙げた作品と異なるのは、既に記したようにあらかじめフィクションであることを強く意識させる構造故に、ドキュメント性に加えて演劇にしかできない遊びの要素もふんだんに取り込まれている点にある。作品としての許容範囲の広さにより、政治家達が発する一字一句変更されていない演説部分が物凄く生々しいものとして際立つというアクセントが際立ってくるのだ。その中でも、何とか危機を回避しようと奔走するコリン・パウエルを演じた吉村直が強く印象に残った。


ではなぜ今、今この舞台が上演されたのだろうか。21世紀に入るや否や起こってしまったイラク戦争の実態を、観客に了解しやすいように伝えるためだったのだろうか。しかし、この戦争は今なお現在進行形の、後世まで遺恨を残す問題である。当然、多くの人達が大まかであるにしろ、この一連の世界情勢についての知識を有しているだろうから、恣意的に歪曲するわけにいかない。私自身は、この問題についての知識的な補完と舞台作品としての興味深さを享受したものの、今上演する意味が発見し辛いことを疑問として持った。日本についての描写が皆無な点もそうさせているのかもしれない。


その手がかりをあえて探索するとすれば、ラストシーンでイラク難民が語る「ろくでもないことは、起きるものだ」という台詞である。これは、ラムズフェルド国防長官がイラクの状況に対して述べた発言である。舞台のテーマと言って良いこの言葉は誰にとってなのか。被害を受けたイラク人にとってもちろん至極全うな台詞であるが、フセインの言葉のようでもあり、後々批判されてしまうアメリカの言葉でもあるだろう。それを日本の、我々の問題としてこの言葉との連関を見出すとすれば、保守的な階層性から抜けきれない日本で、欧米手法による経営術を突き進もうとし、足元を掬われた堀江貴文をに重ね合わせてみたい。彼のやり方の正等性はここで判断することはできないが、近年の主役的人物の隆盛と衰退と、それをエサにするメディアと我々の心象のいい加減さ。弱者と強者・善悪が何の契機で反転してしまうか分からない恣意的な操作が齎す悲喜劇はまさに、「ろくでもないことは、起きるものだ」という言葉で表現されるに相応しい。






Last updated  Apr 11, 2009 03:06:16 PM

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