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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #66(舞台)
楽天ブログ★アクセスランキング ・庭劇団ペニノ 『笑顔の砦』 7月7日 精華小劇場 マチネ 舞台は一人の怪優が持つ世界観のすさまじい求心性によって否応なく支配された。声や姿態の良さで惹き付けるのではない。また、人生経験を積んだ老境に差し掛かった俳優だからこそ獲得できる、頷き一つで全てを物語ってしまうような匠の技芸の世界を惜しみなく披露するのでもない。 「すさまじい求心性」を発揮したマメ山田という俳優の特異さとは明瞭に窺うことができる二面性によって支えられている。すなわちしわがれた声と、コビトのような姿をした老体の見た目のインパクトに、その大きな所以を求めることは否定できようもないことだが、それだけでなくどんな瑣末なことも全身で知覚する集中力が支えとなった確かな演技力と、時折垣間見える茶目っ気という側面が大きな落差として同居しているが故に、存在を非凡でとんでもない変化球タイプの俳優たらしめてる。言い換えれば、一人の怪優が持つ世界観の求心性に従って微妙に、しかし着実に劇世界を変質へと誘ってゆく、ということが展開された舞台だった。 被変質側とは、30年になんなんとする漁師生活を送る45歳のやもめ男のタケさん(久保井研)である。面倒見が良い典型的な頼れる親分肌の人柄を慕って彼の部屋には弟分の後輩漁師がひっきりなしに出入りしている。飯をふるまい、共に語らう日々の積み重ねの上に成立する、海の男達ならではの岩盤な信頼関係の深さが窺える。彼らから紡ぎ出される会話は、古典的ドラマツルギーに則った所謂ドラマ=事件などとりたてて起こることがない、よく「見慣れた」光景が基本となり、舞台上に流れてゆく。 具体的には、客席に背中を向けるような演技、自然科学界の現象の再現を担う照明の妙、木造古アパートだけでなく裏庭まで作りこむ舞台美術、雨樋から流れる雨水の音等など逐一挙げればきりがないほどに、可能な限り現実世界に近接しようとするリアリズム度合いの徹底さは、平田オリザの作品群でも見られないような作り込みである。加えて、ペンギンプルペイルパイルズのような過去と現実が同居するような戯曲上の演劇的趣向もなく、ただただ一直線に時間の流れる数日間を描く。暗転中挿入されるナレーションが前口上の如く次のシーンのブリッジとなる。多くの観客が実感したように、これは映画ではないかと思わされるのだ。 上記に記した映画的枠組みを変質させるのが、隣の部屋へやって来たマメ山田演じるキクの役割である。舞台空間を二つに分け、二部屋を同時に見せる点がこの作品唯一の演劇的手法と言えるが、これも昨年ポツドール『恋の渦』で四分割にしたユニークな舞台を観ているためか、それほど新奇さを得ることはない。しかし、両者のこの空間の意味はすこぶる異なっている。同時並列的に並べられた空間は、舞台を覗き見る観客の位置、つまり窃視願望をことさら強調することは共通しつつもその位置をさらに徹底させることで、冷静に動物生態観察的立場に置かれる『恋の渦』よりも、なま身の肌触りが『笑顔の砦』にはあるからである。朽ちたアパートからの印象とタケさんを取り巻く人間が、いくら対外的な人情味溢れる者達であるにせよ、現代人である限り、コンクリート壁に覆われた瀟洒な箱庭空間で汲々となる人間とそう違わない。どんな場所に住もうとも他者に関心を持たず閉鎖された関係性を生きる我々に思わぬ揺さぶりをかけることに、二分割された空間の必然性があるのだ。間に設定された木の壁が浸透膜のように機能し、気配や空気が自由に行き来するために。男世界を脅かす女という異なる性の到来がそれである。また、日常の平穏さを脅かす異形のものへとパラフレーズすることもできよう。平穏な日常映画は一転、ホラーの一面を持ちはじめる。 こういった構造を持っているにも関わらず、肝心のキクとタケさんは直接出会わない。一度だけ、窓越しに部屋を覗いたところ、キクと多喜子の抱擁を見てしまい、驚いてすぐさま退散してしまうという出来事があるだけだ。このニアミスは一瞬だが、その一瞬がタケさんに微妙な尾を引かせる。キクの介護士である多喜子を介して。 多喜子を演じる五十嵐操は、母性を感じさせる肉付きの良さとアンニュイな姿がどこか生活に疲れきって何かを諦めたような女性である。多貴子とキクの一線を越えた関係が描かれた二つのシーンに劇の要を求めたい。たくし上げたスカートの裾から露になった脛。それを撫で回してからおもむろに顔を擦り付け、スカートの中に顔を突っ込む。すると多貴子の体が反射的にくの字に折れ曲がる。もう一箇所はタケさんが目撃してしまった、あの胸に顔を押し沈めて抱擁する(される)シーンである。 ホラー映画に、匂い立つエロスがさらに加味されるのはこの時である。老婆という設定ながら、私は男性か女性か一見しただけでは判然としない容姿のマメ山田から子供の姿をした悪魔を、そして多貴子を供犠された生贄に見立てて二人の関係性を見つめていた。子供に退行した要介護の老人による侵犯になすがままにされる女の姿から、判然とし難し関係性だからこそ屹立する異常な官能の世界がある。バタイユが指摘したように、尋常ならざる禁忌への侵犯が躍動する生の連鎖へと反転するというエロティシズムの秘める内実をまさに体現する一際印象的なシーンであった。汗の湿った匂いと共に放たれるエロスが私に突き刺さり感覚を鋭敏にする。意味やビジュアルが日常生活に還元されることがリアルではなく、客席に座った人間の身体を直截刺激し、動揺させる一瞬間の強烈な感覚を与えることこそが演劇におけるリアルということだとしたら、客席に座る私という存在の自明性を根底から震撼させるほどではなかったものの十分それ準ずる効果を上げたと言える。 壁で仕切られているというだけで、安定した日常=「笑顔の砦」が約束されるとは限らない。他者への無関心を決め込むことが現代社会の処世術だとしても、ひたひたと気づかぬ所で忍び寄る侵犯という影響性によって崩壊させられる可能性の上に成立する危ういものを含み込んでいる。忍び寄る何かをこの作品では多喜子の行き来が可視化する。それだけを取ってみれば女の来訪以上のものではない。しかし、キクの部屋で行われる秘儀という妖かしの裏事実を身体に染み込ませた女なのであって、それを知ってしまったタケさんは自らの拠った立つ基盤に亀裂を入れられ、自身が持てなくなるのである。 冒頭に記したようにこの作品は、マメ山田抜きには語れない。タケさんを演じる久保井研は、台詞を喋りながら料理をするという技術力を要求される演技もこなす熟練のてだれを発揮するが、マメ山田の強烈な個性の前にかすみがちであったことは確かだ。また、パフォーマンス色の強い集団だと仄聞していた初関西公演が、以外にも文学的主題の強い作品だったことにいささか肩透かしであったが、それをうまく相対化させたののもマメ山田の重要な役割であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 24, 2008 05:10:53 PM
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