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Mar 22, 2008
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #79(舞台)

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五反田団 『偉大なる生活の冒険』

3月14日 こまばアゴラ劇場 マチネ




戦略的に一矢報いる笑い


これまで数本五反田団の舞台を観ているが、いつも鬱々とした気分にさせられる。。


この気分とは、現代日本が置かれている現実原則の問題を圧縮した格好での突きつけに起因する。とりわけ私自身をも含んだ若い世代にとって看過できないそれが、台詞と身体からじわじわ染み出し我が身へと侵食してくることの恐れにも似たものなのだ。


舞台は汚い。万年床、無造作に置かれたマンガ本、ゲーム機とテレビ、脱ぎっぱなしの衣類が散乱した一室。ここはどうやら女(内田慈)の部屋であることが、舞台開始時に万年床の隣に座布団を数枚並べて布団代わりにしている男(前田司郎)とのやり取りで判明する。男は定職に就かない金なしで、そのくせカメラマンになる夢を何かの言い訳のように口にするダメ男だ。ゆく当てもなく最後に行き当たった昔の彼女の部屋にそのまま居ついてしまったというダメさ加減である。狭い部屋を占拠している2つの「ふとん」を定位置に、登場人物が概ね座ったり寝転んだりすることで舞台が進行してゆく。我々はL字型に設えられた客席から他人の部屋を窃見することになる(私が座った最前列に至っては、役者と目線がほぼ水平である)。


この光景は、2年前初めて五反田団に接した『ふたりいる風景』とほとんど変わることがない。ある世代、ある状況に置かれた者にとっては五反田団の世界ほどリアルな設定と物語内容はないだろう。ニート・フリーター人種のだらけた生活様式、それを差し迫った問題とは認識していないために将来の自己像なども到底ない。にもかかわらず生活できていることに当座の満足を得ているために「なんとかなる」というメンタリティーだけが醸成されてゆく。それを許しているのは、こういった者と関わることが自分の生活をより圧迫することを嫌というほど理解しながらも、養ってしまう同居人の存在である。いわば似た物同士のよるのマイナスの連帯感が支えとなった腐れ縁の生活に、男の友達である田辺(安倍健太郎)とその彼女(中川幸子)も出入りする。作中、4年前に死んだ妹(石橋亜希子)との回想シーンが幾度か挟まれる。妹が死んでから今のような生活になったと主張する男だが、妹とのやり取りは女の会話とさして違いがなく、今も昔も全然変わっていない。働いて貸してた借金を返せと要求する女に、カメラを売って金にするよと応じたり、女がバイトに出てる間にやってきた田辺とRPGに興じ、両方共頭を殴られて叱責されるあたり、これがこの者達のありふれた日常で、受け答えなど初めから決まっているのじゃないかと思わされるくらい息のあった「手だれ」感を醸し出し笑いを誘う。


即身仏になりたいと願う『ふたりいる風景』に登場する男や、自分だけが死ぬのと自分だけが生きるのは同義であるという考えを持つ少女(『生きてるものはいないのか』のワークインプログレス『ノーバディ』)が前田司郎から生み出された。彼らは自らの生活を上昇させるべく何らの積極的な行動を起こすことなく、まさにその場に居ながらにして神聖なまでの力を手に入れ行使するしたいと待望している。これはゴドー待ちの状況に似ているが、救いとしてのゴドーに呼ばれたエストラゴンとウラジーミルにとっては、ゴドーが来る事だけはいつまでも信用できた。そのため、それまでの長い退屈な時間をどう潰そうかと頭を悩まし懸命になることもできたのだ。しかし、その待望はもはや建前でしかなくたとえゴドーが来たとしても何を待望していたのか、その目的を失った人間はその存在に気付くことはないだろう。別役実の『やってきたゴドー』という作品は、ゴドーの存在といういつまでも留保していた言い訳をとっぱらい、誰もが共通に抱いている訴求物などはないんだという我々の潜在意識下の目線を引っ張り出す。人間としての上昇とは何か。それは相対的なものとして個々個人の思考の仕方如何で如何様にもなるものである。就職・結婚・出産・マイホーム・定年・年金生活という語句を並べ立ててみて、誰もこのルートを保障してはくれない。それは個人の努力や生き方以上に近代国家が歩んできた制度の破綻として今、我々に露呈されている。建前すら失った以上、前田が描くような世界を生きることは選択肢の一つではないと言い切れない。私は、鬱屈した動かぬ生の中から途方もない待望を得ようとするこの劇のような人間を「底流する人間」と捉えているが、それはネットカフェ難民と言われる社会的弱者だけでなく、それを非難する言説に代表される、世間一般の価値基準に依拠した位置に安住する者たちを含めて、今の時代を生きる者が等しく陥っているメンタリティーではないだろうか。


価値基準が相対化された時、会社内での出世欲や野心と同じく妄想に自身の身の置き所を求めることもあり得る。RPGの世界内では、ラスボスを十分倒せるくらいにレベルを十分に上げ、通貨単位であるG(ゴールド)持ちであることを誇る男。いざラスボスと対峙し、パーティの全てを自身の手で倒して一人になった上に、木の棒だけというまさに捨て身でボスを倒すことに懸命になる。この辺りの心情は感覚として非常に良く分かる。男がゲームに興じて一日を過ごす姿は、ネット上に擬似自己を生み出し、無責任な書き込みを延々垂れ流すネットマニア・携帯依存の女子高生と同じく、仮想世界の住民と切り捨てることは簡単だが、そう切り捨てる側の立場とはでは何なのか、そんなに価値があるものなのかという問いかけもまた生まれる。男と女の関係は、前者が座布団、後者が万年床。これが定位置である。男と田辺の関係ではこの位置は逆になる。彼らなりに日常生活上におけるヒエラルキーというものが厳然と存在していることが分かるのだ。養われているという意識くらいは持ち合わせた男はだから座布団をつなげた上に寝るのだし、年齢による先輩後輩の上下が男と田辺の差として現れている。どれほどくだらない生活者であったとしても、厳然たるヒエラルキーが存在する。それを破ることなく守ること。社会生活、人間関係を営んでいることは十分分かる。「どうにか生活していくだけでもそれは本当に偉大なことで、ことさら人に褒められるようなことをせずとも生きてるだけでなんだか凄いなあと思います。」と前田がパンフレットに書いた意味はこの辺りにある。


字義通り受け取れば前田の描く世界は、だめな生活者の謳歌や主張ということになる。だが、それだけなら何も私を鬱々とはさせない。ラスは、女を抱きかかえた前田がちょっと笑ったところで溶暗する。唯一の財産ともいえるカメラを売って手に入れたわずかな金で買ったカニ缶を食べた後、狂ったように暴れた女に「結婚しよう」と言い放った直後に笑うのだ。物語としては一応の完結を与えるが、この終わり方も2人にとってはいつものことなのかもしれない。しかし、この前田の笑いは我慢しきれなくなった笑いが不意に噴出した種類のものであった。明らかにこの時の前田は、前田司郎という一人の人間の丸腰の身体をさらけだしてしまったのであり、物語を自分自身でばかばかしく否定するかのように覚めた視線を差し込んだのである。当然この時、客席は大いに笑いに包まれながら終わったのだが、この時の前田の笑いこそ、現実社会をうまく描き出す物語として傍観者であった我々をあなた方も結局の所同じですよと、引きずり込んで批評する意味の笑いなのだ。


この舞台は、ある世代ある環境下に置かれた者達の様態をまざまざと提示するに
余りある。それ以上に前田が見せたこの笑いにこそ、若い世代による一種の戦略的な一矢報いる主張となっている点に本質があるのではないかと思い至らされる。私自身が抱いた鬱々とした心情は、このような生き方や心理を理解しつつ、抵抗感を抱くメンタリティーや見下した目線が暴かれることにある。それは、自壊しつつも岩盤な近代が要請する「全うな生き方」への拘束力に捉われた私の心情である。 とは言うものの、批評的な冷めた笑いというものが、同世代感覚を超えて、果たしてどれだけ波及力があるだろうか。70年代後半のつかこうへいのように逆説としての悪意が機能不全に陥り、表層の言語レベルだけを観客が消費対象として受け取った事態を招きかねない。そこでは笑う目的に来た観客の哄笑が過剰に浮き立った。反-制度を唱えようとも、駄々っ子をなだめる「大人」達の規範に所詮容易にあしらわれ馴致させられてしまうのだ。


西堂行人は、『生きてるものはいないのか』の劇評で、オタク気質の創り手と観客によって成り立つ笑いに「イヤーなもの」を感じたと記しながら、「孤人」として決して交わることのなかった者が時として発揮する連帯性に新たな局面を見ている。
社会的弱者として切り捨てられてきた彼らのくぐもった声が、決して声高にならない無気力による悪意であることも特徴的だ。五反田団に見られる「イヤー」な感触はまさにその悪意とシニシズムの具体的な産物だろう。そこでは徹頭徹尾『非従順』であり、拘束や命令に「非同意的」である。つまり何かに積極的に反対するのではなく、拒絶し遁走することにおいて、メタメッセージを送るのである。
『シアターアーツ』2007年冬号
それが資本主義構造をも食い破るかもしれないという可能性が述べられている。前田のシニカルな笑いが先の文脈でいうところの「イヤー」なものなのであるが、群れとなって凝り固まった生態をただ晒すだけでなく、このように生理的な揺さぶり以上に「大人」達にとって脅威とならなければ先述したように一蹴されるだけである。そうならないため、相手の懐に入って舌を出すくらいのしたたかさと行動力が必要である。それが、私達の世代の真摯な眼差しと戦略的な反-制度への一手となるのではないか。だからこそ、遁走という選択肢はまずいだろうと思うのだ。





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Last updated  May 1, 2009 03:20:14 PM



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