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Feb 13, 2010
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #102(舞台)

・青年団リンク 二騎の会 『F』

2月7日 こまばアゴラ劇場  マチネ

二騎の会 『F』


あちら側とこちら側の境界線上を夢想する


ロマンティズム溢れる物語ながら、ラストに味わうシニカルさ。それがこの舞台の肝だと言えよう。そこに、閉じられた文学から脱する手触りを感じさせるのである。こちら側とあちら側の世界に属する一組の男女(多田淳之介・端田新菜)の一年間の物語。何がこちらとあちらかなのかは明確ではない。そもそも登場人物がどういう者なのか、そして演じられる場所もどこなのか明瞭でないのだ。主な装置が巨大なベッドとブランコだけという宙吊り感覚に満ちた劇設定の中で、四季を通した男女のささやかな交流が描かれる。


女が毎日決まった時間に薬を飲むのは、どうやら治験の仕事で生活をしているらしいからだ。そして、男はその薬の時間の知らせを始め、女の身の回りの世話をしている。彼はどうやらアンドロイドらしいことが女との会話から察せられる。すると、こちら側とあちら側の世界とは、両者の立ち位置の違いである、とひとまずは言えるだろう。死亡後は自らの身体を解剖に出すという契約で、まとまった金銭を得ている女は、厳しい現実に押しつぶされながら生きる貧困者である。薬の影響で体が蝕まれていくものの溌剌とした態度は崩さない。なぜなら、日々食べていくためには、身体をずたずたにしなければならないという相反する性質を抱えることがすなわち生きることであり、そのことを悟り・受け入れているからだ。だから、アンドロイドが、人間は生まれてから皆平等などと教科書的な理念や考えを口にすることを大きく非難するのだし、そのことがアンドロイドという非現実的な在り方を含め、男の彼岸性を示すことになるのだ。


立場を異にする両者が桜、浴衣・花火、秋の味覚、クリスマスツリーといった四季折々のトピックスを共有する1年間という時間はわずかな日々である。だが、舞台奥に吊り下げられた横棒に、季節が変わる毎に衣装代えのために脱がれた衣装が次々掛けられ増えていく様が、差異の中にも共同生活を間違いなく送ったという可視的な証を示している。


ここまで見てきたような、人間の心を学習してゆくアンドロイドとの共同生活というモチーフは、よくあるSF映画のようであり少女漫画的だ。機嫌を損ねた女に食事を強要されたアンドロイドが、故障するよと断った上で女のやりたいこと、権利の保護という任務遂行のために躊躇なく食べようとするシーンがある。それを女が慌てて冗談じゃんと制止する様は、わがままな女と、それを許容する大人の男というよくある痴話喧嘩そのものだ。このように彼らの暮らしは恋人同士の親密さを増してゆく。冬のシーンでのキスはその頂点である。


春の桜を見せるために外へ連れ出し、浴衣の着付けを教え、秋の味覚を使った料理を振舞うアンドロイドは、外の世界を持ち込んで来る存在としてもあちらの世界に属する者だ。体調を悪くした女のために大きなクリスマスツリーを買い込むのもその内の一つ。その金銭は女が治験で得た資金である。ここに至って、働かない駄目なひも男と、なぜかその男の面倒を見続ける健気な女という構図に至る。自分が死んだ後アンドロイドが廃棄処分になることを知った女はアンドロイドに逃げるよう訴え、当のアンドロイドはここから一緒に逃げようと返すあたりは、共依存の芽生えということになろうか。電球が灯ったクリスマスツリーが浮かび上り、それを共に見るささやかだが幸福な時間。だが、祝いのためにアンドロイドがクラッカーを鳴らした瞬間、女は息絶えてしまう。遺体を抱えたアンドロイドは、女が最後まで手にしていたクリスマスツリーの飾りの花を見せてやる…


素敵なロマン劇で片付けることが可能な舞台であるが、このラストをどう見るかで作品の捉え方は随分変わったものになるだろう。というのは、極端にドライな感覚がこの時のアンドロイドから感じられるからだ。もちろんそれは、感情表現が下手なアンドロイドだから当然なのかもしれない。だからこそロマン性がいや増すという見方も出来るだろう。だがこの時、両者の生きる役割が終了(アンドロイドはこの後、先述したように廃棄処分されるとすれば)したということはもちろんのこと、最後までこちら側とあちら側に属する者同士としての立場を守って生きたということが重要なのである。


あちら側の世界など所詮幻想でしかなく、あちらと思った場所はいざ行ってみるとこちらへと転換するものでしかない。あちらの世界とは、そうやって無限に引き伸ばされるものだ。それは今や、我々万人が痛感している所である。あちらと思って行き、あるいは新規さを感じて何事かを試みても、それは常に理想とは程遠いこちら側という現実でしかない。あちら側は再び遠景に措定されるだけだ。ならば、どこかで割り切って自らが線を引くしかない。女にとってはそれが治験の仕事で生きるということだろう。同時に、女から見ればあちら側の存在であるアンドロイドも、彼なりのこちら側を生きていたのだ。アンドロイドがしきりと女の権利を守ると口にするのは、こちら側の人間としての位置を女に迷いなく全うさせることではないだろうか。たとえ自身の立場を自覚し割り切っていたとしても、一人では図らずも生じてしまう迷いを起こさせないための役割として。互いが取るべきポジションを常に了解するために相手を必要としたのであり、そこからはみ出さない程度に、彼らは時に無茶をし合うという恋愛ゲームを繰り広げていたのだろう。それがドライな感覚を生み出すのだ。したがって、この舞台はあちらとこちらの出会いなどではなく、こちら側とこちら側とが束の間共感し合ったに過ぎな
いというべきだろう。自らのフィールドを設定せざるを得ない者が互いに共同生活ができたからこそロマンがある。その逆では決してない。我々生活者にとって切実な現実的皮膚感覚がラストシーンの淡々とした様から炙り出されたこと。アンドロイドと人間の出会いから別れという単なる美しいメロ物語枠からはみ出す要素の在り処をこの舞台から読み取らねばなるまい。


人はそれぞれにこちら側を設定せざるを得ず、それに納得しなければ生きていけない。その設定度合いをどこに置くか、それが人の価値観である。女にとってはワーキングプアに等しい冷遇された若者として、アンドロイドにとっては女の権利を守ることを前提としてプログラムを基に行動するしかない被支配者として。自らのフィールドを認識し保持しながら、あえて束の間のひと時を過ごすために割り切って接していたことを、侘しい関係性と言うなかれ。その感覚こそが、この厳しい時代を生きるに最も相応しく、また必要な態度なのだ。それは夢や幻想の世界に耽溺することとはまた違った遊戯性や演技性というものである。現実を生きる為の演技は極めて「今」を捉えている。


そう、自らの役割を把握し保守するという割り切った潔さを基底とした演技がこの舞台の通低音となっている。それが役を演じるということに転換することは言うまでもないだろう。そのため、役がそのまま演技することへの事故言及的な要素を孕んでいる舞台でもある。普段、作・演出家として活動する多田淳之介がアンドロイドを演じた。最初、いかにもよそよそしい感情のない丁寧な語り口調で女と接していたアンドロイドが、もっと砕けた感じにしてよ、の一言でころっと若い兄ちゃんのような態度へ一転させるシーンは笑を誘う。もちろん、目の前のアンドロイドはあくまでも演じる役としてであって、生身の人間であることを観客は当然了解している。どこまでいってもアンドロイドにななれない以上、多田は役への落とし所をどこかで決め、割り切った演技をするしかない。発語と同時に身振りが付く癖があったが、十分にその着地点は見られたと思う。そうでなければ、ラストシーンのドライな手触り感は表現できなかったろう。端田新菜が演じた女も、わがままな子供のような演技で自由奔放にアンドロイドを振り回す役を見せた。


ラストシーンのドライな感覚は、穿った見方を私にさせたことも記しておこう。さきら芸術監督就任という演劇内の彼岸に位置する勝ち組(芝居で飯を食う)多田淳之介が、若い女優へ見せる優越的視点という構図がそれである。ただ、それもすぐさま演劇界の序列を見やるなら、完全な「上がり」というわけではない。こちら側とあちら側はどこまでいっても相対化されるものでしかない。「上がり」とは所詮、死ぬことでしかないのだから。その程度の冷静な感覚が、我々にとってより欠かすことのできない視点である。






Last updated  Feb 13, 2010 07:24:25 PM



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