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カテゴリ:演劇評論
2021年の新型コロナを巡る状況 新型コロナウイルス禍の日々が3年目に入ろうとしている。緊急事態宣言が延長を繰り返しながら都合四度発令されながらも、昨年8月20日には都内で一日の新規検査陽性者数が最大5,405人を数えた。そのような中で開催された東京2020 夏季オリンピック・パラリンピック期間中には、病床のひっ迫による自宅療養者は一時、全国で一日に13万人を超えた。自宅で死亡する患者も、8月末までに全国で200人を数えた。その間にもたらされたのは、人と人との文字通りの分断である。感染の発生源と目された飲食店は、不十分な給付金だけで長期間に渡り、時短営業と酒類提供の自粛を求められた。旅行・観光業の経済的な苦境も続く一方で、一般企業は営業の自粛や停止は求められなかった。不幸にも新型コロナで感染して亡くなった人もいれば、経済苦や半強制的な人流の抑制によるストレスで、子供を含む自殺者も増加した。 これほどまでコロナ禍が続くとは、多くの人は思っていなかったのではないか。そのため緊急事態宣言下でも、自粛疲れによってしだいに街に人が出るようになった。そして生活のために営業時間を延長したり、自粛が求められていた酒類を提供する店が現れた。また観劇予定の公演が、4月の三回目の緊急事態宣言では公演途中から中止になったが、四回目の夏以降はそのような対応をする劇場や劇団はなかった。そのような人々の行動変容による緊急事態宣言の効果低減を、医療や疫学の専門家たちは「緩み」とさんざん指摘した。しかし一年のほとんどを緊急事態宣言下で過ごす内に、その「日常」に適応した生活を模索することは仕方のないことであろう。政府は一昨年と同じく必要な病床の確保に十分な手立てを施さず、金銭的な支援にも後ろ向きの冷たい対策を行ってきた。むしろ緊急事態宣言を無視した人の移動や経済活動の再開とは、諸対策を更新しないままで営業と移動の自由を縛り続けたことに対する、当然の反応であったと捉えるべきだ。 そもそも人流抑制のための緊急事態宣言に有効性があったのか。ウイルスの潜伏期間が10日~14日と言われながらも、三回目に宣言を発令した翌日に新規陽性者数が減った。逆に七月の四回目の宣言では、発令中に陽性者が増える第五波を迎えてしまったが、夏の終わりには減少し始めて10月1日に全国で解除された。専門家は数十万人の感染者数が出ると予想して外したり、急速に収束した第5波の決定打が、ワクチン接種によるものだとは言い切れず、よく分からないと発言した。またワクチン接種率が日本と同水準の70%を超えた欧州や韓国では、11月に感染者が増大した。だがワクチン接種と感染率の関係について日本との違いがどこにあるのか、専門家たちからは納得のいく説明がなされなかった。加えて一部政治家とメディアは、「ゼロコロナ」という不可能な対策を主張し続けていた。政治によるコロナ対策はもちろんのこと、私は専門家によるおよそ科学的とは思えない主張に不信感と疑念を抱くばかりであった。この間の対策を振り返ると、感染の増大と減少は季節性要因を含んだウイルス側の都合であり、人間による対策は事態の推移に左右しない、という意見の方がよほど説得力があった。新型コロナ自体のことは少しずつ分かってきた部分はありながらも、そういう意味では昨年もウイルスに振り回された一年であった。決して人類は新型コロナに打ち勝ってはいない。今後も政治や医療の専門家によって、効果が不確かな対策がなされることだろう。おそらく我々にできることは、繰り返される対策に「後退戦」を感じて辟易としつも、各人がしっかりと「正しく恐れ」ることは忘れずに生活することで、ウイルスの弱体化を待つ。それしかないのではないか。「緩み」とはそのような状況の中で採られた、人々の模索の結果なのである。そしてそのことを是として認めることから、本当の意味でのウィズコロナの思想が立ち現れる。昨年11月には新たな変異株のオミクロンが登場した。今後も別の変異株が現れても、基本的な感染対策は変わらないはずだ。 そんな2年目のコロナ禍の中で、どのように演劇が対峙したのか。作風を変容させながら上手く対応したり、コロナ以前との社会状況との対比を突きつけたり、ウィズコロナをポジティブに提起する作品があった。見るべきものがあったそれらの舞台について触れたい。 感染対策を創造的に昇華させた作品 何組もの男女のペアが、糸井幸之介のオリジナル楽曲に乗せて、様々な愛の形を歌い語る。FUKAIPRODUCE羽衣の作品は、誰もが経験した/かもしれない心情を、観る者に切なさと共に惹起させる「妙―ジカル」で知られる。楽曲を大声で歌い上げ、俳優同士の密な接触を伴う作風である。コロナ禍で「三密」が忌避される中、『スモール アニマル キッス キッス』(2020年8月、吉祥寺シアター)では、事前録音したセリフと歌を流し、それに合わせて俳優が口パクすることで乗り切った。これまでと同様のスタイルでいかに上演するかを試行した後の『おねしょのように』(作・演出=糸井幸之介、2021年3月、東京芸術劇場 シアターイースト)は、2チーム体制で出演者を少人数にし、上演手法もガラリと変化させて挑んだ。そのことで、以前とは感触の異なる味わい深い作品に仕上がった。 ある冬の朝、良い年になっておねしょをした主人公(深井順子)が、いささかの後悔と共に布団を干したり食事などをする、ささやかな一日のスケッチが描かれる。そして主人公の内面の視覚化、あるいは代弁者として五人のコロスがいる。彼らは黒田育世が振り付けた動きと共に、主人公の日常動作を介助したり鼓舞するように歌う。その後、主人公の家にやってきた友達(西﨑達磨)とドライブにでかけ、ピクニック場所でかくれんぼをする。友達が鬼となり、主人公は隠れるために下手にハケるがそのまま帰宅。時刻がすっかり夜になった自室で、主人公は「遺書」と題される長いモノローグを吐露しながら、夜食を食べたりする。朝のすがすがしさとは一転、取り巻くコロスもいなくなり、主人公は一人で沈鬱した気分を抱きながら床に就く。そこに再びやってきた友達が布団をめくり、誰もいなくなった床に「見~つけた」と言って物語は終わる。プロローグとエピローグとして、干された布団の心情吐露が入る。これが作品の奥行きを広げる枠組みとなっている。布団である自分はおねしょを全部受け止めてあげたいが、大きさと面積に限界がある。だから、際限なくいくらでも吸収してくれる土壌の方が適しているのでは、といった内容だ。布団の語りを物語に重ねると、社会(布団)に包摂されきれない人間(おねしょ)の構図を想起させられる。端的に言えば、社会の中で生き辛さを抱え、居場所が見い出せない人間ということになろう。溌剌とした気分に包まれた朝は、そのプラスの感情の表れとしてコロスが出現する。しかし夜は潜在意識下に押し留めていた不安や恐怖に襲われてメランコリックに包まれるからこそ、内向的になってコロスも出てこないのだ。「遺書」を語る主人公の台詞には、外出できなくなった旨の発言がある。ここからは新型コロナウイルス禍を反映した、人と人の分断による孤立から来る寂しさを感得させられる。また朝と対照的な夜には死の匂いも漂っている。布団が語る土壌へのおねしょの吸収とは、朝と夜の繰り返しから抜け出る唯一の方法としての死を示唆しているのかもしれない。 本作にどこか乾いた手触りが感じられるのは、羽衣の特徴であった、肉体接触を伴う性愛の表現が排されているからだ。それは下半身から放出されるおねしょと、それを受け止める布団との想像的な関係性に痕跡を留めているのみだ。しかもおねしょとしての主人公は、布団に受け止めてもらえない。それは愛の不成就であり、人間が社会からこぼれ落ちることである。だからこそ、最後に友達が発見するシーンにはじんわりとした余韻を与えられる。ささやかながらも、きっと人には確かな居場所があるはずだという安心感を抱かせるからである。そこには、対個人の関係性を称揚する羽衣らしさが認められる。とはいえこのシーンで、主人公と友達が直接的には出会わないことに注意を向けておきたい。友達がめくったシーツには誰もいないのだ。その前段では、隠れた主人公を友達が探すことに手間取るシーンがあった。したがって主人公が死=土壌に吸収される最期を食い止めることに失敗した、とも思える。ハッピーエンドか否かが両義的に受け取ることができるラストシーン自体に、朝と夜の両極端のテンションが反映されている。と同時に、おねしょと布団が示す性愛のアイコンをクッションにし、それを介して友達が居なくなった主人公を発見するシーンは、見事な感染対策にもなっているのだ。 童話や絵本を思わせる世界観を背景に、一人の人間の生と死が描かれる。そこに私は、繰り返されてきた人間それ自体の永劫回帰を重ね合わせて観た。大小の白い円形の小道具を重ねて表現したバスタブなどの舞台美術も含めて、様々な要素が絡まるメビウスの輪のような、醒めない夢を見ている気分を抱かせるからだ。そのような感触を与える本作は、男女の恋愛を直情的に描いてきた作風から、観客の想像力に働きかける奥深さを獲得した。この明らかな変化は、コロナ禍の中で演劇することを模索した結果である。新型コロナの蔓延を受けて、劇場機構の感染対策は完備された。しかし作品そのものについては、オンライン配信などで対応することが多かった。感染症対策で作風を変化させた本作は、演劇の方法論的な模索の、昨年における唯一の例だった。 コロナ以前/以後を顕現化させた作品 感染第五波の収束によって、イベントの集客や飲食店の営業が再開された。それに合わせて朝や夕方の通勤電車は、遅延するほど混雑し始めた。これは街の人出の増加と併せて、端的にコロナ前の「密」が戻りつつある兆候であった。その一方で、飲酒を伴う飲み会には忌避感が残り、飲食店の営業時間が短いところが多く、夜の遅い時間の人出は減少。それに合わせて、終電を逃した乗客をアテにしたタクシー利用も低調だったという。サービス、観光業を中心に経済の復調がまだ見えないのは、消費行動に関するライフスタイルが変化したからであろう。私自身、この二年で「正しく恐れる」ことが身に染みついてしまったのが正直なところだ。内需の喚起のためにも、そして人と人との交流が以前のように戻ることはあるのか。コロナ以前と以後を巡る、日常風景の見え方の変化を突きつけられたのが、「ダンスがみたい! 新人シリーズ」「受賞者の現在地」水中めがね∞『有効射程距離圏外・Ⅲ』(演出・構成・振付=中川絢音、テキスト・ドラマトゥルク=つくにうらら、2021年8月/d-倉庫)である。タイトルに「Ⅲ」と付いているのは、前作から三年後を意味するのだろう。それは「ダンスがみたい! 新人シリーズ16」(2018年)のオーディエンス賞を受賞した『有効射程距離圏外』を指している。端々に前作を思い出させるエッセンスが盛り込まれた四五分ほどの作品は、前作と併せて一本に感じられるほど、同質性と違和が重要となっている。 本作は場所と時間を錯乱させるようにして、「現在」を強く印象付ける。舞台に登場した中川は、いかにこの劇場が耐震性に優れているかを前説として述べる。堅牢な劇場は、半年間ダラダラとYouTubeばかり見て過ごし、外部から遮断された部屋というパーソナルスペースに引きこもる女性のイメージへとつながる。そして星を見ることが嫌いと発言した中川を受けて、なぜそう思うに至ったかをつくにが語り始める。つくにが手にした懐中電灯の灯りだけが、時おり緩やかに動く中川を不鮮明に照らす。香川県の離島に旅行した際、満点の星空を指した友達から、地球に届く光は何万年も前のものであり、星自体はすでに消滅していることを聞かされた。その時、もう存在しない星のように、東京にいる家族や友人といった大切な人も、もしかしたらすでに死んでいるのではないかと不安に思った。そう感じたのが理由だという。エピソードを話すつくには、中川が回想するもう一人の自分なのかもしれない。地球と星、離島と東京の距離と錯覚が、別人であるのに同一人物のように見える中川とつくにの関係性にパラフレーズされている。 星と地球の関係やもう一人の自分との対話のエピソードには、現在に過去がねじ込んで混在する不可思議な感覚があるが、これ以降も現在が寸断されたり、現在に未来が混入したりと、かく乱させるようなエピソードが続く。これらはすべて、ミサイルでも破壊されない劇場の堅牢さに似た何かによって守られているが、一方で現実感のなさや浮遊しているような感覚を抱く現代人のイメージの反映だ。そのイメージを、絶対安全な東京という都市そのものとも言えよう。そう考えた時、冒頭の中川の存在は、東京になじめずそこからこぼれ落ちた孤独な人間とも受け取れる。 外界から遮断された、安心安全な東京の象徴としての堅牢な劇場空間。三年前の作品では、それを逆手に取って自由空間にしようと試みた。その点で鮮明に記憶しているのが、中川がパンツだけのトップレスになってのパフォーマンスだ。特に、それを外部でも実行した様を記録した映像が重要である。劇場の搬入口に設置されたカメラは、関係者の駐車スペースとその先にある、左右に走る路地を画角に収めている。映像はカメラ前に立ってポーズを取る中川が、Tシャツを抜いでトップレスになる様子を映し出す。そしてそのまま駐車スペースをダッシュして路地に至り、いそいそとズボンを下ろした後に左に側転。さらに右側に走り去って画角から外れるまでを映し出す。劇場の周囲は閑静な住宅街だ。カメラと道路までは10数メートルの距離があるので、その様子は小さく映し出される。だが走り抜けた際に、住居の玄関ライトが点灯し、その直後にスーツ姿の一般男性が左側から歩いてくる姿がはっきりと映る。この男性は、中川のパフォーマンスの一部を見かけたかもしれない。 三年前の作品でこの映像を観た時は、ちょっと驚いた。この映像は何を意味するのか。劇場空間という守られた中でのフリーダムは所詮、安心安全の予定調和に過ぎない。それに飽き足らず、安穏とした日常と価値観をぶち壊そうと社会への挑発行為に出たのか。はたまた、単なる度胸試しとして、やってしまえ精神で試みたパフォーマンスだったのか。この映像は、社会をザワつかせる攻撃的な挑発にも思えるし、悪ふざけとスレスレの暴挙とも捉えられる。 三年後の本作にもこの映像は流れる。最後まで眺めていたつくにが、「もう一回」と言うと冒頭から再生される。それを何度も繰り返す内に再生スピードがどんどん速くなり、ギャグ漫画のように滑稽に見えてくる。奔放に走りまくる中川の映像を再見すると、かつてとは異なる印象を抱かされた。三年前の中川は、自由で平穏な日常秩序に亀裂を入れるべく、街中に出て暴れてみせた。しかしそのように振る舞おうとする現在の世界には、目には見えないウイルスが蔓延している。もはや東京は、すっかり安全地帯ではなくなっているのだ。この映像は、三年の歳月が生み出す過去と現在との大きな落差を、まざまざと突きつけるのだ。コロナ禍による営業自粛という名の半強制的措置によって、職を無くして自宅待機を余儀なくされた人も多かっただろう。中には経済苦で自殺した人もいるかもしれない。そう考えると冒頭の中川の引きこもりは、個人的な自堕落の問題ではなく、感染症によって二次的にもたらされた、ある種の人災の被害者としても捉えられる。時間の推移を意識させることで、いかに我々が立つ場所が変質してしまったのか。そのことを、東京の不穏さと生き辛さを直接的に言い立てるよりも、三年前の映像によって、観客が自ら痛感するように仕立てられている。そこが本作の肝である。 ラスト、パフォーマンスを終えたワンピース姿の中川が、搬入口を開けてゆっくりと劇場の外へと消えてゆく。三年前と同様のシチュエーションが再現されるのだ。きっと中川は、あの時とは違った緊張感を持って、街中に吸い込まれていったことだろう。 ソーシャルディスタンスではなく人と手を繋ぐこと 疫学の専門家たちが言うように「ゼロコロナ」を求める限り、感染リスクと経済的苦境の両面で人々が疲弊してゆく状況は、いつまで経っても解消されない。それどころかますます分断が高進するばかりであろう。そんな中でも政府は、第5波の収束によって早くも平時モードに戻ろうとしつつある。給付金の再支給は対象者を限定したものに留まり、有事の中でも財政均衡を意識しているのである。コロナ禍の収束が不透明な中で政治が冷たい対応を採る。これは国民にとってダブルパンチである。 流山児★事務所『ヒme呼』(作=しりあがり寿、演出=天野天街/2021年9月/下北沢 ザ・スズナリ)が放つ、人と社会が分断の中にあるからこそ、愛によって包まれなければならないというメッセージは、ウィズコロナへの転換を温もりと共に促す作品であった。感染防止と社会活動のバランスをとり、2022年はウィズコロナを本気で目指さなければならない。 とある温泉宿にやってきた夫妻(甲津拓平、山丸莉菜)。彼らは旅館の女将に、恋愛にご利益があるとされる秘湯「卑弥呼の湯」を案内される。しかし温泉が枯れており、さらに手を触れた彼らは太古へとタイムスリップする。そこは卑弥呼(山像かおり)が死を迎えようとする瞬間であった。火と水と草の有力な三部族が見守る中、卑弥呼は死去。三部族はじゃんけんの三すくみのように、互いに対立していた。彼らをまとめていた卑弥呼が死んだ後、どうやって国を統べるべきか。協議をするも抗争を繰り広げてしまう三部族だが、卑弥呼の葬送のために宴席を設ける。この際は一時休戦。いくつかのグループに分かれて部族間で交流を図るが、その中で突然、苦しみだす者が現れる。他部族の特定の女性と喋っていると胸がズキズキすると言い出す男性や、男性同士でも互いを特別視するようになったりと、異変は様々な形で広がってゆく。この症状はいったい何か。もしかしたら卑弥呼の死去は、彼らに異常を引き起こしたように何らかの伝染病が原因なのではないかと、皆が疑い出す。感染に怯える彼らは古墳の外に出ようとするが、出前の寿司屋に入り口をしっかりと閉めろと伝えていたため、巨大な石で塞がれてしまった。新型コロナを「恋」に置き換え、その概念を知らない古代の人々が、それを解明してゆくナンセンスコメディである。 閉じ込められた彼らは伝染病が蔓延しないよう息を止めたり、壁に向かってしゃべったりと手探りで対策を講じ始める。新型コロナは人との距離をもたらすが、それに置き換えた恋は人を求めてやまない。それがコロナ禍の日々への批評になっており、本作の肝となっている。人々は舞台が進むにつれて、この病は両想いだったら症状が軽く、片思いだと重くなって死へ至るのではないかと考え始める。火の部族で次期女王・イヨ(山丸莉菜)が、水の部族・イズミ(日下部そう)に恋心を抱いていた。同じくイズミに好意を寄せていた卑弥呼が、自身の予知能力を使ってイヨとイズミの関係を知り、彼女のためを思って片思いのまま死んだのではないか。そのようにして、独自に病気についての解明がだんだんと示され、ワクチンも製造される。だが人々は伝染病がもたらす不思議な幸福感に魅了されて、様々な形のカップルが誕生。最後には全員が、誰かが誰かの恋人という状況になる。 水と火が互いに打ち消す関係にあるように、部族間で恋愛関係になった彼らは、触れ合うと身体にダメージを負ってしまう。しかしそれ以上に気持ちが良いことに思い至った彼らは、痛みに耐えて全員が手を取り合い、友愛の精神で感染症を克服する。そして三部族が融け合うことで、枯れた温泉に再び愛の泉をもたらすという大団円を迎える。未知の存在に出会い、恐れながらもその概念に知恵と勇気で対峙し、協同作業によって克服する。本作で描かれる一連の過程は、人類の進化の一端である。感染症を正反対に捉えてポジティブに描く本作を、緊急事態宣言が解除された10月1日に観たことは示唆的だった。良い加減、我々は新型コロナとどう付き合うかに関して、マインドセットを変えなければならない。分断ではなく人類愛を実行する創り手たちの温か味のある意志に触れ、そう強く感じさせられた。 それに関連して触れておきたいのは、劇中に差し挟まれる換気タイムである。これは単なる幕間ではなく、作品の根幹と対照を成す重要なシーンであった。客電を点けて左右の非常扉を開ける換気タイムの二回目で、袖からやってきた流山児祥は「2時間10分の上演時間が長いから、演出にはカットして短くしろと言ったんですけどね」「このご時世ですから、安心安全にやります」など言う。その言葉に舞台上の火の部族長・焔を演じていた塩野谷正幸が「安心安全なんて、昔はそんな男じゃなかったじゃないか」「演出者協会理事ともなると、保身に回るのか」などと応答する。それに流山は、塩野谷との約40年の付き合いを振り返りながら小道具の短刀を取り出し「これでお前を殺して、自分の首を掻く」と激高する。「殺せるものなら殺してみろよ」と、その場に落ちていた手ぬぐいを右の拳に巻き、「舞台上で本物の殺人を見せてやる」と言う塩野谷。一触即発、まさに事が起ころうかという時に、他の俳優に止められる。流山児が客に謝罪し、塩野谷に退場を促して喚起タイムの終了を告げる。この喚起タイム自体が、デモクラシイタケ(甲津拓平)なる男が劇中の登場人物に見せた幻想という設定なのだが、往年の東映やくざ映画さながらの抗争劇は、本作の要である愛による融解とは正反対だ。ヤクザ映画は学生運動の闘士たちにも支持されていたことを考え併せれば、このシーンには左派集団の内ゲバすら重ねたくなる。だからこそ社会を取り巻く現状への批判を、ファナティックな攻撃性で突き進めれば自壊するしかなく、むしろゆるくフザけた装いで包摂することが重要、というメッセージが際立つのだ。 ラストで夫妻は現代に戻ってくるが、男は妻から他人として扱われてしまう。妻のパートナーはイズミによく似た男である。デモクラシイタケよろしく、男は妻と夫妻関係にあるという幻覚を見ていたというオチが付いて終わる。コロナ禍にさらされた二年の間に、ニューノーマルと呼ばれて生活様式の変更が呼びかけられた。就業形態や会議の在り方など、より良い生活のための変化は進めるべきであろう。しかし県をまたぐ旅行者をバッシングしたり自粛破りの店を吊るし上げるといった、過剰に感染忌避を求めるがあまりの負の側面が目立った。空気によって支配され、皆が衆人環視をしていた状況は、まさに幻覚を見ていたとしか思えない異常な社会である。そろそろ「ゼロコロナ」を志向するという夢から覚めるべきである。本作はそういう意味において、息苦しさからの転換を力強く訴えるエンターテインメントであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 21, 2023 05:32:25 PM
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