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現在形の批評

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May 9, 2025
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カテゴリ:劇評
​​役への自己登記は、すなわち生の自己選択である​​

 世界情勢の不確実性が高進する現代においては、劇世界を虚構で入れ子にするメタシアターを、単に遊戯を目的に用いてはならない。それでは災害のみならず、戦争への懸念が日本でも切迫する状況から背を向けることにしかならないからだ。そのことを、工藤俊作プロデュース プロジェクトKUTO-10『​ストア派おじさん、故郷に帰る​』の劇評で記した。メタシアターの今日的な用い方を示す、もう一つの事例が南極『​wowの熱​』である。ポスト・トゥルースと呼ばれる、恣意的に操作された情報や陰謀論といった風聞は、事実を曲解するという意味で虚構世界を構成することになる。それらに浸り切ってしまうと、現実社会と乖離した別の世界を生きてしまい、場合によっては反社会的な妄執に突き動かされる危険性がある。しかし本作はタイトル通り、まさに演劇への熱に浮かされた若者たちの姿を描く。そのことで、演劇人は現実が虚構に侵食された世界でこそ、生の実感が得られることを逆説的に示した。本作は意識的に虚構世界に生きて虚構と現実を逆転しようと試みることで、かえってアイデンティティが確立し得るという、演劇人の性(さが)と情熱を表現したのである。


 本作は「wowの熱」という作品の上演に向け、稽古をする劇団を描くメタシアターである。劇中劇の「wowの熱」とは、平熱が45℃を超える特性を持つ中学生の少年・ワオ(端栞里)を主人公にした物語。平熱が高い以外は、彼自身にとっては何の支障もない。だが5年前の流行り病で熱を測る機会が増えたために、飲食店で門前払いされるといった扱いを受けるようにはなった。そして今、熱のために見学続きだった水泳の補修を、他の生徒と共に受けなければならない状況を迎えている。この補修も熱が高いことを理由に逃れようとするが、体育教師・海パン(井上耕輔)と追いかけっこした際に、ワオはプールに落っこちてしまう。それによってプールの水温が、ワオの体温によって上昇し温泉に変貌する。生徒皆で浸かって温泉を味わう彼らは、やがてワオ熱湯なる銭湯をオープンさせる。だが、プールに熱帯魚を放流して実験することになっていた理科委員のメガネズミ(こんにち博士)とマンボー(瀬安勇志)の横やりが入る。どちらがプールを使用するかを巡って、ワオとマンボーがカードバトルをして決着をつけるという、漫画やアニメのような展開が繰り広げられる。マンボーが沸騰したワオの熱に当たって失神して勝負はつく。だがその際、マンボーが持ち込んだ、水を凍らせる分泌液を放出するナンキョクヒエウナギがプールに入ってしまう。凍ったプールに閉じ込められた同級生たちを救うべく、ワオはプールに入って力を振りしぼり、再び熱湯にする。同級生たちは助かったものの、教頭に見つかってワオ熱湯は撤収を余儀なくされる。銭湯を撤去した日を境に、ワオの体温はなぜか36度に戻る。そしてワオは、仲間とカラオケに行くなど普通の生活を送るが、ときどき平熱が高かった頃を懐かしく感じる。そんな、少年のひと夏の熱い日々を描く物語である。
 「wowの熱」の物語に至るまでに、実は9個のナンセンスなスケッチが助走として展開される。数珠繋ぎになったスケッチは単なる遊びではない。本作が入れ子状になったメタシアターであることを示す効果がある。開演すると「1番ユガミノーマル」の文字が電光掲示板に流れると共に、高校野球のウグイス嬢のアナウンスも入る。そして劇場入り口から登場したユガミノーマルは、ブラウン管テレビに映る氷を石の金づちで割ろうとしたりヒーターなどで溶かそうとしたりして、中に閉じ込められたオーパーツを取り出そうとするものの失敗。すると次に「2番こんにち博士」の電光掲示板とアナウンスで登場したこんにち博士が、ユガミノーマルに演技のダメ出しをする。なんと彼らは、演出家と俳優だったのだ。しかし「3番ポクシン・トガワ」のアナウンスでポクシン・トガワが登場すると、ユガミノーマルとこんにち博士は演出家と俳優でもなく、お笑いコンビ・ナンキョクズであることが判明する。彼らは演出家と俳優としてダメ出しをするコントを、芸能事務所関係者のポクシン・トガワにネタ見せをしていたのだ。しかしポクシン・トガワは芸能関係者ではなく、入れた物の温度を上げるカバンのセールスマンであった。ナンキョクズの寒いコントも面白くなると言われて、彼らはカバンの中に入れられてしまう。そしてセールスマンがカバンに生肉を入れると、「4番古田絵夢」のアナウンスと共に、原始的なゾウ類・マストドンの家族によるランチが始まる。そしてナンキョクズとセールスマンのシーンは、マストドングランマが描いた絵画として、部屋に飾られている。このように一人ずつ紹介されると共に劇空間に増える俳優たちによって、前のコントを入れ子にするスケッチが次々と展開され、世界観もしだいにナンセンスになってゆく。入れ子になった数珠繋ぎのコントは、冷血動物症という奇病にかかり、近所の子供からホットハウスマンと揶揄される温室の男(瀬安勇志)の物語へと至る。体温調節ができないために、そのままでは低体温になって死んでしまうホットハウスマンは、一日の大半を温室で過ごしている。鬱屈した心情を抱えたまま、温室でスーパーヒーローが登場するビデオばかり見ていた彼は、いつしかヒーローから仲間に誘われることを夢見ていた。しかしそれが実現しないことが分かると、天才的な頭脳を持つ彼は人工知能を人間に移植して、スーパーヒーローを自ら作ろうとする。しかしそのために人間を殺すことになってしまう。だから彼は、自分はスーパーヒーローではなく、ヒーローを引き立てる悪役でしかないことを悟る。という記事が掲載された雑誌『ムー』を、ワオが友達の甲斐(九條えり花)とプールサイドで読んでいるシーンにつながることで、ようやく「wowの熱」が始まるのである。
 上記を1幕とする展開を、明日の本番に向けてゲネプロをする劇団の模様から2幕は始まる。そこでは、実名で登場する南極の劇団員たちの内部事情というレイヤーが加わり、メタシアターの度合いが高まって複雑になる。1幕の終了、すなわちゲネプロを終えた休憩中、ワオを演じる端栞里が作・演出のこんにち博士に、自分の演技の感想を求める。そしてワオならカラオケから抜け出してもう一度プールに戻るはずと、ラストシーンの書き換えを願い出る。こんにち博士は、ワオを熱っぽく表現した端を認めて、演じた本人が言うならとラストシーンの変更を了承する。しかしその直後、栞里は倒れてしまい、公演は中止となる。病院で目覚めた栞里が体温を測ると、45度の高熱があった。彼女は俳優の栞里ではなく、「ワオの熱」の主人公のワオに憑依されたのだった。まるでホットハウスマンのように。栞里が「wowの熱」の劇世界に入って、自身のアイデンティティとは何かに気付く過程が2幕で描かれる。
 ワオを現実世界に召喚したのは、彼のキャラクターを愛しすぎたこんにち博士の仕業であった。上演が終わればキャラクターが消えてしまうことを惜しんだ彼は、雑誌『POPEYE』の特集「呪物・呪術のABC」の中から「物語を現実に浸食させる儀式」を実行し、栞里の大事なものを「wowの熱」の劇世界の最深部に閉じ込めることと引き換えに、ワオを現実世界に呼び出したのだ。栞里の大事なものはどこにあるか。それは冒頭で入れ子状に展開されたスケッチの1番目、氷河に収められている。ここで劇中劇と現実世界のつながりが判明したことによって、栞里たち数人の劇団員たちは、同特集の「物語の中に入り込む方法」を実践し、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムマシン・デロリアンのように、車を使って「wowの熱」の劇世界に入り込んでゆく。車をバックして「逆行」させて、「wowの熱」のラストシーンからどんどんと遡り、ブラウン管に映る氷を割ろうとする男のいる次元に至る。そしてワオの特殊能力を使って氷を溶かして、栞里の大事なものであるオーパーツ=「wowの熱」の台本を取り出す。それを手にした栞里たちは、今度は車を前進する「順行」によって現実世界に戻る。しかしその過程で、蛇行した車がホットハウスマンの温室に突っ込んでしまう。そしてホットハウスマンを、フロントガラスにひっかけたまま戻ってきてしまう。車の「逆光」「順行」に沿って、入れ子状になった世界の最深部へ潜りまた浮上する様は、スケッチに登場する人物たちが流れるように行き来することで表現される。アナログな場面処理ではあるが、視覚的に一発で了解させる極めて演劇的な演出で見事であった。
 劇中盤、劇団のリーダー・ユガミノーマルがビデオカメラを手に、南極の新作「wowの熱」の製作現場のドキュメンタリーを撮影するシーンがある。稽古開始から新宿シアタートップスへの小屋入りまでを、劇団員たちのインタビューを交えてコンパクトにまとめた動画である。舞台上では現在進行形で撮影が展開し、脇のスクリーンに映像も映されるものの、これはすでに撮影された動画であり、回想的な位置付けとなっている。動画には、ゲネプロに至るまでの劇団や劇団員たちの内情が収められている。2025年1月に法人化した劇団の代表取締である和久井千尋は、次の公演で集客が少ないと大きな負債を抱えると嘆く。そして電卓を叩いている時の方が幸せだという彼は、いつも振られる豪傑な役柄と本来の自分との間で引き裂かれる思いをしている。デザイン担当の古田絵夢は、「wowの熱」のタイトルだけでどうやってフライヤーを作れば良いのかと癇癪を起こす。3つのバイトを掛け持ちするポクシン・トガワや、特殊な方法で作曲をする揺楽瑠香といった、スタッフを兼務する彼らの姿が描かれる。そして「wowの熱」で初主演を務めることになり、喜ぶ栞里の姿も映し出される。南極でただ一人、途中入団した彼女は高校時代、公共劇場でアルバイトをしていた。ちょうどその時に南極がリハーサルをしていたが、ユガミが熱中症になって降板。彼の代わりに栞里が本番で台詞を読んだことがきっかけで、こんにち博士に南極への入団を誘われたのだという。そんな彼らに台本を配ったこんにち博士が、次回公演の作品コンセプトを伝える。そこで、先述した入れ子状に数珠繋ぎされるスケッチは実際に上演されるわけではなく、実際の公演ではワオと甲斐が雑誌『ムー』を閉じるシーンから舞台は始まると告げる。入れ子状のスケッチは、作品の深みを増すための裏設定でしかないが、作品の背景をしっかりと踏まえて演じてほしいとこんにち博士は述べる。しかし、劇団員たちは複雑すぎる設定が理解できず混乱する。劇中の南極が上演する「wowの熱」では上演されないことになっているスケッチだが、現実の『wowの熱』ではすべてが上演され、観客は序盤にすでに見ている。したがって、こんにち博士による作品コンセプトの説明は嘘ということになる。すると劇中で展開される「wowの熱」の製作過程も、劇団員たちの内情を含めて虚構だということになる。劇中劇「wowの熱」を単に現実が包んでいるのではなく、その現実だと思われていた世界は、実在する同姓同名の人間が登場するものの、虚構の劇団のドキュメントである。劇中劇「wowの熱」を上演しようとする虚構の現実を中間項として挟み、さらにこの2つの虚構世界を上演する本当の現実があるという、3層の劇構造を本作は有しているのである。
 したがって、栞里が「物語の中に入り込む方法」の「順行」で戻ってくる現実世界も、虚構としての現実である。その世界に、車のフロントガラスにひっかかったままホットハウスマンがやってくることで、劇中劇「wowの熱」のキャラクターと、虚構としての現実である南極の劇団員たちが入り混じり、両者の境界のあいまいさが高進する。そのことが良くわかるのが、ホットハウスマンと彼を演じる瀬安勇志が同一平面に存在しているように見せるシーンである。虚構としての現実にやってきた際、彼は栞里が落とした「wowの熱」の台本を手に入れる。そして自分の役柄を理解した彼は、物に人間の意識を移植する人造人間を作るために、劇団員たちを次々と襲う。その最初のターゲットとなるのが、ホットハウスマンを演じる瀬安勇志である。公演中止後、ジムで劇団のドキュメンタリー動画を見ていた勇志は、ホットハウスマンによって絞殺される。その際、ホットハウスマンは寒さに耐えるべく相当に厚着をしているために顔が隠れており、勇志と別の俳優が演じていることが分かる。そして死体を引きずって掃除用具入れに隠そうとしている間に両者は入れ替わり、覆いを取るとホットハウスマンの顔は勇志になっているのだ。そして、一旦退席していた水泳部顧問・海パン役の井上耕輔が戻ってきて死体を発見するが、ホットハウスマンによってスタンガンで気絶させられ、彼も改造されてしまう。他にも、普段の自分と演じる役柄のギャップに悩んでいた和久井は、二つの人格を顔の半分で分けて両方を有するトゥーフェイスへと改造される。このようにホットハウスマンは劇団員たちを改造し続け、子供の頃に読んだヒーローコミックに登場する6人からなる悪役集団・シニスターシックスを結成する。なぜか。「wowの熱」の台本を読んだホットハウスマンは、プールに溺れたことで水を温泉に変える能力を覚醒させたワオに、本当のヒーローの誕生を見た。そんなワオをこの現実世界に誕生させ、シニスターシックスに打ち克つというストーリーを実現させるためである。そのことが、自分はヒーローになれないホットハウスマンの、悪役として長年夢見ていたことだったからだ。冷蔵庫と融合して全てを凍らせるミスター・フリーズに改造されるポクシン・トガワが、「wowの熱」は台本に書かれた物語でしかないとホットハウスマンに述べる。しかしホットハウスマンは、ならば虚構を現実化させて、消費されない物語の反乱を行うと宣言する。この台詞には演劇の現実化という、演劇人の夢と共に、本作の肝が集約されている。
 一方、平熱を取り戻した栞里は、ホットハウスマンの魔の手から逃れた劇団員たちに、「wowの熱」の再演を劇団事務所で提案する。資金がないと劇団員たちに反対される栞里だが、そこに彼女の望む通りに台本を書き換えたこんにち博士がやってくる。再演することに同意する2人だが、こんにち博士は栞里をまだワオだと思って喜ぶ。栞里は俳優としての自分が評価されていないことに反発。栞里は、大事なオーパーツはこんにち博士が勝手に設定した台本ではなく、自分そのものだと言ってそれを破り捨てる。その時、シニスターシックスがやってきて、栞里やユガミたちを新宿浄水場へと誘いだす。そこは、「wowの熱」の最終場面のプールサイドに状況が似ている。このシチュエーションが「wowの熱」の再演そのものだと思い込むこんにち博士は、音響や照明スタッフを呼んで演出を付けて、ワオとシニスターシックスとの対立を演劇化する。しかし一般の通行人や浄水場の管理人に使用許可を取っているのかを問い詰められて、無許可だったことが発覚すると、スタッフたちは機材を撤収してしまう。演劇を現実化しようとするホットハウスマン、現実に起こっていることを演劇化しようとするこんにち博士、そして現実世界を生きる一般人やスタッフの冷めた反応。ユガミは演劇のようにショーアップされる空間で、現実と虚構を巡る三者三葉の立場が入り乱れる様を目の当たりにし混乱する。ここにおいて、現実と虚構の乱反射が極点に達するのだ。そんな中で、こんにち博士と同じく栞里にワオを投影しているホットハウスマンは、彼女に抱きしめてほしいと告げる。自分の体温をコントロールできないホットハウスマンは、ワオの高熱で殺されることによって、自らの死と引き換えに最高のヒーローを誕生させるという、ねじれた願望を成就させようとするのである。暴れ回るシニスターシックスによって場がカオスとなり、ユガミが負傷する。その痛みに苦しむユガミが栞里に、この状況は台本や演出がない現実そのものだと告げる。
 虚構のような出来事が現実(という体裁)となった様を目の当たりにして、栞里はその場から駆け出して退場。そして舞台美術が全て片付けられて何もなくなった空間に、奥の扉を開けて栞里は再びやってくる。そこは新宿シアタートップスの裸の劇場空間である。この時こそ、栞里と観客は同じ目線で時空間を共有する。つまり、何もないシアタートップにいるという紛れもない現実を感得するのだ。手にラストシーンが書き換えられた完全版の「wowの熱」を手にした栞里は、ラストシーンに至るまでをぶつぶつとつぶやき、次第に熱を込めて一人で演じてゆく。その間に他の劇団員たちは、栞里と交わしたやり取りの断片を発する。それは栞里と劇団との関りの回想であり、「wowの熱」の最終リハーサル、初主演に抜擢された日、劇団に入団した日、ユガミの代役として舞台に立った後、そしてこんにち博士に劇団に誘われた際と、時間を遡ってなされる。「wowの熱」を演じて歩き回る栞里と、彼女に話しかける劇団員たちは会話が噛み合わない。しかし双方が話し始めるタイミングや仕草がシンクロしているので、傍目から見れば会話が成り立っているように見える。これは栞里の脳内で展開されている回想の視覚化なのだろう。彼女は記憶を遡行して自身の俳優としての原点に立ち返りつつ、今やらなければならないことを、内なる衝動に突き動かされて実行しようとしている。過去と現在が彼女の中で混然一体となり、アイデンティティを探るのだ。その答えが、虚構の現実化の実践である。「wowの熱」のラストシーンは、ワオ熱湯の撤収後に平熱に戻ったワオが、友達とカラオケに行って普通の中学生に戻ることだった。だが書き換えられた完全版の台本では、カラオケから抜け出したワオが夜のプールに忍び込む。そして自分の体温よりも低いであろうプールの水を温泉にするべく、その場でジャンプをして飛び込む瞬間で幕となる。ここにおいて観客は、新宿シアタートップスで、今まさに演劇の魔力に自らを賭けようとする俳優の姿を、一種の感動と共に目にするのだ。
 憑依型俳優として劇団員から評価されてきた栞里は、こんにち博士やホットハウスマンに、ワオという役柄を求められ、素の自分を見てもらえないことに悩んでいた。そのことは、代表取締役の自分と豪胆な役柄との間で引き裂かれる和久井も同様であり、俳優ならば大小誰しもが抱える問題であろう。そのことは、自己規定する自分とは異なる役柄を、他者から一方的に与えられることによって生じる。だからこそ、与えられた役柄をあえて自分で選び直した時に、自己との差異は解消される。それは役に進んで自己投機することに他ならない。その境地に至ることで、俳優のアイデンティティが満たされるのだ。本作は複雑な入れ子構造のメタシアターを展開し、ホットハウスマンの台詞にあったように虚構の反乱によって現実に打ち克とうと奮闘する作品である。その眼目は、虚構による現実への侵食でこそ、演劇人が生きていることの実感が得られるという命題を浮かび上がらせることにある。虚構世界に留まり続ければ現実世界と乖離が生まれてしまい、日常生活が送れなくなる危険性がある。だが本作で登場する現実世界は、虚構としての現実という中間項であることに留意しよう。それによって、俳優がいくら虚構で現実を侵食しようと企んでも、その現実世界は虚構としての現実であるために、本当の現実世界で生きる自己を見失うことはない。しかしそのことは、本当の現実を虚構世界が支配することは不可能であるという隘路に行き着いてしまう。そういう意味では、ホットハウスマンの企みは決して実現されることはない。だが虚構世界で光り輝く瞬間が本当の自分だという、演劇人の切実なアイデンティティは満たされる。演劇による虚構によって現実を変えることはできないかもしれないが、それに関わる者にとっての、もうひとつの真実ではあるのだ。ここにこそ、演劇人がなぜ金銭的に報われない演劇活動をするのかという真理がある。本作は演劇の熱にうかされた若者たちが、なぜ演劇をするのかを作品総体で表現した。その熱が持続するうちはどんな苦労もいとわず、仲間と乗り越えて行ける。これが運命共同体としての劇団の良さである。そんな場を共有するからこそ、劇集団は作品ごとにクリエイターが集うユニットとは異なる集団力が発揮される。それに観客が感応した時、観客はアナログな芸術である演劇に、映像表現とは異なる独特のリアリティを感得するのだ。
 不条理な笑いや突飛な展開が次から次へと目まぐるしく出来するので、観客は翻弄される。それでいて作品の展開の仕方には不思議と無理矢理な感じがしない。一つ一つの場が投げっぱなしになっておらず、後々の伏線となって上手く回収されている。時空間の移動による場の処理もスムーズなので、作品は複雑ながらもキレイに一本にまとまってつながっている。このような戯曲が書けるこんにち博士の筆致には舌を巻く。それだけでなく、露天風呂を思わせるゴツゴツとした岩のような巨大な舞台美術に、「wow」のネオンサインが光るワオ温泉のビジュアルも目を惹く。奈落があるシアタートップスの劇場機構を活かして、床に広げた巨大カバンの中に俳優が飛び込んで消えたりする演出にも工夫が施されており、エンターテイメントもふんだんに盛り込まれている。度々客電が点灯して、リハーサル風景であることを明らかにする場に登場する音響や舞台監督は本当のスタッフである。彼らも劇中の登場人物として俳優とやり取りを行ったり、場転を手伝ったりと、舞台が立ち上がる様を演劇として観客に体感させる。俳優、戯曲、演出、劇場機構が混然一体となって、壮大な虚構を出来させた。相当に手の込んだ作品は、劇団だからこそできる特性であろう。
 南極の作品を観るのは初めてだったが、この作品だけでもこの集団が演劇に何を求めて何をやりたいのかが、はっきりと見えた。今、このような愚直な劇集団は珍しい。本作は南極ゴジラから南極へと劇団名を改名した後の一作目である。今後、どのような作品を創るのかを興味深く追っていきたい。​​​​​​





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Last updated  May 9, 2025 12:54:51 PM



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