書評:堀井憲一郎 『若者殺しの時代』
現在形の批評 #29(書籍)人気blogランキングへ堀井憲一郎 『若者殺しの時代』(講談社現代新書)1983年という転換点自分が生きている今という時代はいかにして成り立っているのか。それを読み解くキーワードとして60年代論、80年代論がよく取り上げられる。本書は後者の80年代という時代システムが現代の若者の荒廃に繋がっているということを著者自身の経験とデータに基づいて指摘する。吉崎達彦は1985年を時代の結節点としたが(『1985年』新潮新書)、著者は1983年という時代に着目する。1983年。それは私が生まれた年でもある。その時、何が起きたのか。クリスマスが恋人と過ごす日に「作り変えられ」、バレンタインデーが「作られ」た。ディズニーランドが開演して女の子達はかわいいもの、メルヘンチックなものへと傾斜して女性の賭け金が上がった。連続テレビ小説では83年の『おしん』を最後に国民は貧乏者の気持ちが分からなくなった。他にも様々な例を出して時代の切れ目を提示している。「若者」という属性が発見され、消費ターゲットになったのがこの時代であり、そのシステムを用意したのは団塊の世代だと著者は主張する。90年代、行き詰った経済を招いたのは、そういった団塊の世代の「作り上げた」時代に「若者」が追随するしか方法がなかった。そういう風に見れば、「革命・闘争」の60年代と「おいしい生活」の80年代を比べても人間の精神構造が実は同じだったのだ。「若者」は決して自由ではない。「若者」は決して得ではない。時代のテールエンドに必死にしがみつきながらどうにかして社会システム逃れようとしている。ただ逃れたいだけなのに逃げた途端、「ニート」と呼ばれて怠け者のレッテルを貼られる。1983年。その時代は演劇の世界にも大きな断絶を生んだ。寺山修司が死去し、天井桟敷が解散。86年には暗黒舞踏の土方巽が死去した。これにて日本の前衛は死に、時代はポップ化した売れる商品(劇団)によりいっそう群がり始めた。ハイエナのように群がり、食い物にしたのはこれまた金を持った団塊の世代の人間であった。「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。うまく、逃げてくれ」(194頁)と著者は励ましの言葉を我々「若者」に送る。その答えは教えてくれない。誰にも分からないからだ。逃げるとは堕落することではない。逃げるとは拝金主義の自転車操業の世の中に絡め取れられないようにしろということ。著者は伝統文化を学ぶことを提示はする。さあ、電脳世代の貴方は、どうやってこのシステムから逃げる?