2011/02/28(月)23:08
応神天皇陵調査 その2
前回からの続きです。
今回の調査で、誉田御廟山古墳が応神陵である証拠が見つかったら
例えば、内堤にこんなものが転がっていたりして・・・
可能性はとても低いですが、
もしも、誉田御廟山古墳が応神天皇陵だと判明したら
おもしろいことになります。
少なくとも、武烈天皇以前の在位期間・年代について
「真剣に」再考する必要が出てくるのです。
(なぜ「武烈天皇以前」かは後述)
前回も書いたように、応神天皇は3世紀から4世紀にかけての天皇。
在位期間は西暦270~310年とされています。
そして、誉田御廟山古墳の築造年代は5世紀前半と言われています。
その食い違いは、約100年。
一方、初代神武天皇の即位は紀元前7世紀。
神武天皇が実在した天皇だとしたら、
誰が考えても「紀元前7世紀」はあり得ませんね。
これは天皇家の歴史を古く装うための年代操作だと言われています。
中国の讖緯(しんい)説に基づき、
「辛酉は天命が改まる年」という考えから
神武天皇の即位を紀元前660年に設定したと考えられています。
応神天皇が、記紀に記されているより100年ほどあとの天皇だとして
それ以前の天皇も100年ずらせばいいかと言えば、
決してそんな単純なものではないと思っています。
天皇家の歴史を古く装うために、
古代天皇がものすごく長生きしたことにしているのです。
しかも仲哀天皇のあと、応神天皇が即位するまでに
神功皇后が70年もの長きに渡って大和を治めたことになっています。
古代天皇の年齢がどのくらい不自然なほど長命だったかは、
私が以前、ブログに書いた記事をご覧ください。→ 古代天皇の在位
そうして、ちゃんと古代史を見直して行けば
あの箸墓古墳だって、
ちゃんと倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓だと判るはず。
ちなみに、上記別ブログをご覧いただけば判るように
100歳を越える天皇は初代神武から16代仁徳まで12人。
そして応神天皇の前にほぼ100歳の神功皇后も加わります。
私が記紀の編者なら、「天皇家の歴史を古く装え」と命じられたら
初代神武から3~4人の天皇が
200歳から300歳くらい生きていたことにします。
そしてその後の天皇については、正しい年代で記すのです。
その方がずっと不自然さもなく、歴史書の編纂も楽です。
ナント言っても天皇は、高天原の神々の末裔なので
200歳であろうが300歳であろうが長命であってもいいのです。
その後の天皇が(人間並に)短命になったのは
ちゃんと古事記に書かれているのですし。
(邇邇芸命と木花開耶姫命の婚姻の神話)
なぜこのようなややこしい擬装をしたのか。
ちゃんと理由があると考えていますが
そのことについては、別の機会に書くことにします。
さて、では古代天皇の在位年代をどのように修正するか。
それは、やはり天皇陵の調査が最も有効な方法だと思います。
私は前回の日記に
「調査目的で天皇陵を掘り返すことには反対」と書きました。
では、どうすればいいか・・・。
少し長くなってしまいましたので、そのあたりは次回に書こうと思います。
最後にひとつだけ。
この日記の最初の方に
「少なくとも、武烈天皇以前の在位期間・年代について
『真剣に』再考する必要が出てくるのです」と書きましたが
その理由は、今城塚古墳の存在です。
現在、宮内庁が武烈の次の、継体天皇陵に比定しているのは
茨木市にある太田茶臼山古墳です。
その比定については、以前から疑問視されていましたが
近年の発掘調査により、そこから1kmあまり北東にある
今城塚古墳こそが真の継体天皇陵であると言われています。
上の画像は、以前このブログで掲載した2007年3月の写真。
今城塚古墳で発掘された
横穴式石室の基礎となるコの字型大規模石組み遺構。
現地説明会に参加して撮影しました。
今城塚古墳では2001年に、日本最大の家型埴輪をはじめ
天皇の即位の儀式を表わしたとも思える多数の埴輪が発見されています。
間もなく、今城塚古墳は歴史公園となり
近々、資料館もオープンする予定です。
この今城塚古墳の築造年代は、継体天皇の年代に合致します。
従って、少なくとも継体以降については
記紀の記述は本来の年代に沿って書かれていると推察できるのです。
つづく
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