山田維史の遊卵画廊

2007/01/15(月)16:50

女正月と柳

 我家では7日夕方に門松を取り払った。東京はたいていこの日にそれを行なう。しかし昔は、江戸時代のころもふくめて、今日14日におこなったようだ。地方にはまだ昔ながらに14日に行なうところがあるかもしれない。なぜ7日に繰り上がったか、詳しいことを私は知らないが、もしかすると御用始めや勤務先の正月休みの終了に関連しているかもしれない。  ところで明けて15日は「小正月」と呼ばれる。小豆粥を食したり、繭玉を飾ったりする。小正月はまた「女正月」と言われる。年末から門松払いまでのおよそ3週間、家の女性たちは働き詰めに働く。その慰労のために、この日は一日ゆっくり休んでもらおうというわけだ。しかし、どうも完全休養ができたかどうか。  「細腰を柳でたたく十五日」という古い句がある。  この意味、じつは粥杖と呼ばれた柳の枝で女の腰を叩くと男の子を懐妊するという信仰があった、そのことを指す句である。これ以上のことは述べなくてもお分かりだろう。  柳と懐妊がなぜ結びついたかは不明ながら、おそらく家産を増やすというイメージがあったにちがいない。この日飾る繭玉というのは、柳の枝に繭の大きさほどの餅や団子をつけ、金紙でつくった模造の小判や稲穂やオカメの面などを結びつけるもの。養蚕家や商家ばかりでなく、一般家庭でも家内繁盛の願いをこめて飾った。東京では昔、神田明神社や亀戸天神、妙義神社の社前で売られていたという。明治時代の市井風俗を描いたものに、マントに鳥打帽をかむった男が繭玉を肩にかついでいる絵がある。  銀座の柳は有名だが、これも単なる街路樹という以上の意味がこめられていたかもしれない、と私は考える。現在はほんの一部、すなわち柳通りに復活植樹されている。  また、清酒のことを柳酒もしくは柳樽という。現在でも特別な祝事や結婚式などで、長い胴に長い柄のいわゆる角樽に朱漆をほどこした酒樽をみかけるが、これが柳樽である。酒を贈るかわりに、酒代を贈ることがある。この金を柳代(やなぎしろ)と言った時代があった。  どうも、柳というのはやはり目出たさ、祝儀と結びついているようだ。後日、もうすこし古い文献などを探索してみるのも面白そうだ。  ついでながら、卯の木の杖は魔を払うという信仰もあったようだ。昔の俳句に柳杖と卯杖と対で詠まれることがあった。そして唱歌『夏は来ぬ』でおなじみ、「卯の花の匂う垣根に」と歌われるこの垣根、もしかすると家の周りに魔除けのために廻らせたものかもしれない。  きょうの昼間、私は繭玉のことをふいに思い出したのだった。私が小学生のころまでは、我家でも繭玉を飾っていた。紅白の丸い団子を柳の枝につけ、模造小判なども結びつけた。小学生のころというと八総鉱山に住んでいた当時もふくむわけで、たしかに茶の間の片隅の柱に結わえつけて飾られていたことを思い出す。この祭事はもっと幼年の記憶にもあるけれども、我家は養蚕家とも商家ともまったく縁のない家系である。どうしてこの行事が我家に入ってきたか疑問に思い、母に尋ねてみた。母も小首をかしげていたが、母の子供時代の記憶にもあるので、おそらく母が持ち込んだものだろうということになった。  我家へ伝来の由来はともかく、これが排されてしまったのは、私が中学に入ると同時に親許を離れてしまったからのようだ。柳の枝を探しに出かけたり、飾り付けをする者がいなくなってしまったわけである。  繭玉飾りが取り払われると、紅白の小さな団子は砕いて、油で揚げてアラレにした。揚げ立てに砂糖をまぶして食べるそれは、子供のころの楽しいオヤツだった。    明日は小豆粥ならぬ小豆善哉でもつくろうか。 山田維史 《とどかぬ日射し》 コラージュ 2007年1月14日

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る