山田維史の遊卵画廊

2008/09/04(木)15:12

黒澤明『蜘蛛巣城』

映画・TV(151)

 昨夜はNHK・BS2で黒澤明監督の『蜘蛛巣城』を見た。封切公開時に見て以来だから51年ぶりだ。私は同じ映画を初見後も何度もみる。しかしこの作品は見ていない。なぜだろう。考えたことはなかったが、いまにして思えば、特別な思い入れがあったためかもしれない。  私が『蜘蛛巣城』を見たのは、福島県の八総鉱山小学校の講堂においてであった。封切は1957年の1月だが、八総鉱山が購入したのはもう少しあとだろう。小学校は前年に建設が成り、開校して1年目。私は12歳、6年生だった。  講堂には、2台の映写機を備えたれっきとした映写室とステージ上に巻き上げられる映画用スクリーンが付設されていた。月に1度、土曜日の夜、社員家族のための無料の映画館となった。わたしたちは銘々座布団をかかえて出かけた。  さて、『蜘蛛巣城』は私がリアルタイムで見た黒澤映画の一番最初の作品である。この作品を見て、私は黒澤映画のとりこになってしまった。翌年、会津若松市の中学校に入学したため親許を離れた。それは、お小遣いの許す限り自分の好きな映画を選んで見るチャンスを得たということも意味し、『蜘蛛巣城』以後の黒澤作品はすべてリアルタイムで見ることになる。さらには、遡ってほぼ全作品を見ることになるが、それもこれも『蜘蛛巣城』の衝撃のためだった。  製作:黒澤明・本木荘一郎、監督:黒澤明、脚本:黒澤明・橋本忍・菊島隆一・小国英雄、撮影:中井朝一、美術:村木与四郎、音楽:佐藤勝、録音:矢野口文雄、照明:岸田九一郎、記録:江崎孝坪。  出演:(鷲津武時)三船敏郎、(その妻、浅路)山田五十鈴、(三木義明)千秋実、(その嫡男、義照)久保明、(都築国春)佐々木孝丸、(その嫡男、国丸)太刀川洋一、(小田倉則保)志村喬、(物の怪の妖婆)浪花千栄子。  ストーリーについてはここに述べることもあるまい。シェイクスピアの『マクベス』を原作とし、日本の戦国時代に話を設定しているほかは、とりたてて改作と呼べるようなところはない。原作の骨子を忠実に映画化している。ただしそれはあくまでも物語の「骨子」であって、シェイクスピアのあの厖大なセリフはすっかり抜け落ちている。したがって『蜘蛛巣城』は映画そのものではあるが、無言劇のようでもある。  一面に濃霧がたちこめる荒涼とした大地。わびしく古びた木碑に「蜘蛛巣城」。  その荒々しい大地を蹴って、背に旗指物をなびかせた騎馬武者が一騎。山城の巨大な門扉を疲労困憊の態で敲く。都築国春を城主とする難攻不落を誇る蜘蛛巣城である。しかし今や北の館の藤巻の謀反により形勢は危うくなったとの報告であった。国春は、忠臣小田倉則保の進言により、籠城の決断をした。が、そこへ新たな急使が思いがけない朗報をもたらす。一の砦の武将鷲津武時と二の砦の武将三木義明とが、謀反を平らげたというのである。国春は、さっそく二人を褒むべく呼び出す。  蜘蛛巣城へむかう騎馬の二人は蜘蛛手の森で道を失う。蜘蛛巣城を取り囲むその森は迷路のように錯綜し、侵入者をはばんでいた。二人の武将はやがて森のなかで妖しい老婆に遭遇する。老婆はすでに二人が何者かを知っていた。そして、鷲津武時はすぐに北の館の主になりさらに蜘蛛巣城の城主になるだろうと、また武時より「小さいが大きい」三木義明は一の砦の大将になりさらに蜘蛛巣城の城主になるだろう、と予言めいたことをいい残したちまち消え失せる。  やがて二人の武将の運命は、この妖婆の予言に操られるように、血なまぐさく狂っていく・・・  黒澤映画のなかで『蜘蛛巣城』は特別な意味を有する作品である。極端ないいかただが、「美」以外はなにものもない作品だからである。それ以前の16作品はいずれも「思想」を語ろうとして来た。その直情的とも言える語り口は、いまになれば、やや生硬で青臭い。もちろん黒澤自身が若かったのだから当たり前といえば当たり前。しかし『蜘蛛巣城』ではそれがふっきれてしまったのではあるまいか。あえて思想など語らなくてもよい、映画にしかできない表現がある、そういう地点に到達したのかもしれない。光と影と動き。そこに集約される映画の美。『マクベス』のあの厖大なセリフがこの映画から抜け落ちているということは、重大な意味をもってこよう。  おそらくそれだからこそであろう。12歳の私を圧倒したのはそのような映画美であった。が、その美が何によってささえられているかについては、何も詰まっていなかった当時の私に分ろうはずはなかった。51年振りに再見して、それが、能をみごとに咀嚼し、さらに静と動との完璧なまでのバランスを与えられた「美」であることを見て取ることができた。私自身が能に対する関心を深め、造詣を深めてきたからこそ、この映画に表現されているものが理解できた、と思った。私にとって51年という年月は必要だったのであろう。  この作品に引用されている能とは、そのドラマトゥルギーであり、所作であり、囃子(リズム)であり、舞台美術であり、要するに能の技巧のすべてだと言ってよい。  たとえば、蜘蛛手の森のなかの妖婆は『黒塚』の引用である。その小屋。その糸車。糸車を回す妖婆の居住まい。これらは、もう、直接的な引用である。黒澤は原作の魔女たちという複数(3人)を一人に集約しているが、それだからこそ『黒塚』を引用できたのだし、また日本の民話や伝承において一つの目的をもった複数の魔女(物の怪)が登場するという伝統がない。したがって一人の妖婆に設定したことは正解であろう。  さらに、物の怪が消え失せたその場所に、二人の武将は、屍の山をみる。いつのものとも知れぬ白骨化した死体が幾つもの山となっている。このカットは意外に見過ごされがちかもしれないので注意しておく必要がある。なぜなら、いましがたの妖婆は『マクベス』の「魔女」とはあきらかに異なり、あるいはこれら死者たちの怨霊となんらかの関係がある物の怪と解することができるからだ。とすれば、この白骨の山が、能のドラマトゥルギーに通じるもっとも肝心な核であると見ることができる。  あるいは、北の館の主となった鷲津武時と浅路が、主人都築国春の訪問を機会に殺害を謀るシーンから、殺害を経て、その現場である「あかずの間」で二人ながら内心に狂乱をかかえこむシーンまでの長いシークエンスは、能舞台そのものを連想させる。そして、浅路を演じる山田五十鈴のメイキャップは、能面のように真白な厚塗りで表情を削ぎ、終始やや俯きかげん。その歩き方は能の「摺り足」である。さらに武時も共に、立居がまた能のたたずまいである。立っている二人が同時に座る場面がある。その膝のまげ方から、すっと沈むように静かに座る様を見ておこう。  「あかずの間」の正面、雛壇の背景は能舞台の松羽目そっくりに作られているが、松のかわりに主人都築国春を殺害したときの血しぶきが禍々しい。それも当然で、松が象徴するのは永遠の生命だからである。いわば本歌取りしてさらに負のイメージに逆転している。じつに面白い美術である。三船敏郎(鷲津武時)が座っている背後に、屏風のようにしつらえてあるのは矢立である。鷲津武時は弓の名手なのだ。  主人都築国春の殺害をそそのかし、警護の不寝番に痺れ薬をいれた酒を差し入れることにした浅路が、酒を用意するために奥にひっこむ場面がある。背を向けて出入口にひっこんだ姿がかき消すように暗黒に消える。すぐに大きな瓶子(へいじ)を抱えて白い顔の無表情で登場するが、いきなり暗黒から出現する。ここの照明は注目に値する。暗黒と光の領域とのあいだに中間領域がないのである。この効果は甚大で、象徴の高みに達している。おそらくカッティング技術によるのであろうが、その繋ぎは自然で、自然であるからこそ不自然な魔界が出現しているのである。  もうひとつ、録音にも注意を向けなければならない。山田が摺り足で動きまわるたびに「衣擦れ」の音がするのだ。それ以外の音は注意深く除外している。そのため、山田の衣擦れのみが、シューシューとまるで蛇の草むらを這い擦るような音になって効果をあげる。  「衣擦れ」といえば市川崑監督の『細雪』にも、これは谷崎の原作にも書かれていることだが、長女の岸恵子が外出のための着替えをしながら、「帯が鳴る」と言う場面がある。正絹の帯はキュッキュッとなるのである。着物でも裾捌きによっては衣擦れがし、それは女性のおとなの色気を感じさせるものだ。このきわめて日本的な音が、じつは映画の音として表現されたことがない。すくなくとも私は知らない。  そのような点においても、『蜘蛛巣城』の山田の衣擦れの音は記憶されなければなるまい。  山田五十鈴の浅路の歩き方が能の「摺り足」の技法だとすれば、三船敏郎の鷲津武時が主人国春を殺害し、血糊がべったり付着した槍を抱えて浅路のもとへもどってくるその足音は、能の「足拍子」の技法であると言ってもよかろう。  足拍子には、たとえば『道成寺』の乱拍子のように、気を溜めに溜めて絞り出すように足踏みするがそれはむしろ無音である。が、舞台を踏み抜くかのようにドンドンと音をたてる足拍子もある。いずれも囃子方の演奏、とくに鼓の裂帛の気合いにあわせる。能舞台そのものが建築的にその音を響かせる構造になっている。床下に幾つもの大きな土瓶が埋めてあるのである。  三船はこの足拍子さながらにドンドンと足を踏みならす。この拍子は、たんに足音高く踏みならすのとは違い、技巧的に非常に難しい。それを三船はやっている。  ところで物語はこの主殺し以後、武時と浅路の運命は狂乱怒濤のごとく、そして坂を真っ逆様に転げおちるように奈落の底へ転がり出す。それを動とすれば、前述した「静と動」の静の方は、例の妖婆に遭遇するシーンまで戻らなければならない。  このシーンは異常なほど長い。浪花千栄子が演じる物の怪の老婆は、真直ぐ正面を向いて座り、無表情のまま何やら妖しいことを呟きながら糸車を回しつづける。二人の武将、鷲津武時と三木義明は、気をのまれたように無言のまま老婆を注視する。カメラは時に妖婆を二人の武将の肩ごしにとらえ、また逆方向から妖婆の背中越しに二人をとらえ、あるいは横から妖婆をとらえはするものの、終始この得体の知れない妖婆を中心に据えながら長い長いシークエンスを作り出している。  なぜこんなに長く撮らなければならなかったのだろう。それは、二人の武将の運命を決定する重要な場面だからにほかならない。この物の怪の予言を信じようと信じまいと、二人はこの物の怪に操られるように運命が回転しだす。そのことを観客に強く印象付けなければならないのである。  物の怪がこつ然と消えたあとで、暗黒の天空にまるで爪跡のような細い弦月がかかり、鋭い叫びをあげながら鵺が横切る。この月もまた、かつてどの映画作品にも登場したことがない鋭く細い月である。  二人は予言を背負って蜘蛛手の森を騎馬で駆ける。この騎馬のシーンも見事だ。ジョン・フォードの『駅馬車』を凌駕するような素晴らしさだ。稲妻が閃き、背中の旗指物がはためき、森の木々が飛ぶ。ここも長い長いシーンだ。駆けれども駆けれども運命の網からのがれられないことを暗示するかのように。・・・そして二人の騎馬武者はようやく蜘蛛手の森の迷路から抜け出て、霧が深くたちこめる荒れ野に出る。遥か彼方に蜘蛛巣城が姿をあらわす。  シェイクスピアの『マクベス』では「バーナムの森が動くとき、殿の運命がきわまる」と予言される。『蜘蛛巣城』では、蜘蛛手の森が動きはじめる。無数の矢が鷲津武時めがけて射放たれる。撮影時に三船敏郎が思わず恐怖の叫びをあげたと伝えられている有名なシーン。まだ見ぬ人のために後は書かないでおく。  12歳の私はこのシーンによって、映画を「創る」ということに目覚めた。一本の矢の仕掛けを、自分で工作して実験してみたのだ。いわゆる映画の小道具を、おそらく初めて自覚したのである。気がついたらすぐ手作りしてみるというのが私の習い性で、どうやら子供の頃からそうだったようだ。  

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る