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カテゴリ:映画・TV
昨夜はNHK・BS2で黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』(1960.9)を見た。封切公開時に見て以来のことだが、場面は良く記憶していた。中学3年生。会津若松の現在はない「グランド銀星」という映画館でだった。
この映画が当時の私にあたえた影響は、その音楽にある。三船敏郎演じる復讐鬼・西孝一のテーマソング。三船が口笛で吹くその曲が、各シーンにおいて何度か繰り返される。ドレミソソ、ドレミソソ、ドレミソミファミレド/ ドレミソソ、ドレミソソ、ドレミソファミレドシ。このブログで音符を書くことができないけれど、スラッシュ以後は転調するがたぶんこの音程にちがいない。 中学生の私は、自分でも口笛で吹いてみたばかりか、映画のなかでの効果のおもしろさに、すぐに学校で放送劇をつくり、自作の曲を一部に挿入するということをやった。 私は生徒会副会長で放送委員も兼任していた。芥川龍之介の『杜子春』を脚色し、下級生の委員に役をふりあて、テープレコーダーに吹き込んだ。「ある日の暮れ方・・・」で始まり、街路のざわめきなど馬車の音には薪を軽く紐で束ねて床を転がして音をつくった。あるいは閻魔様の声は金属製のバケツを頭からかぶって妙な反響をつくり、そしてテーマ曲はリコーダーで吹いた。・・・こうして製作した放送劇を昼食時間に全校に流したのだった。 『悪い奴ほどよく眠る』のテーマ音楽が、自分も何かを作ってみたい、挿入曲を作曲して劇を演出してみたいと、中学生を駆り立てたのである。 私はそのころすでにいっぱしの映画少年だったから、沢山の作品を見ていた。しかし、50年も前のことをあらためて思い出すと、自分も何かを作ってみたいと夢中にさせ、そういう気持で画面を食入るように見つめた映画は『蜘蛛巣城』以来、黒澤作品だけであった。いや、驚嘆したシーン、記憶に深く刻み付けたシーンは他の監督作品にも多々ある。それらは今でもまざまざと目の前によみがえる。が、やはり創作意欲のような、なにか筋肉がムズムズしてくるような、血が滾るような作品は、黒澤映画だった。 昨夜あらためて『悪い奴ほどよく眠る』を見て、この映画のシーンが他の監督作品に引用されていることに気がついた。 冒頭の結婚式で汚職の犠牲として飛び降り自殺したそのビルをかたどったウエディング・ケーキが運ばれてくるシーンは、F・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』に引用されている、と私は見る。 また、未利用土地開発公団総裁(森雅之)が、姿を見せない巨悪にすべてがうまくおさまったと電話で報告して深々と頭をさげるラスト・シーンは、伊丹十三監督『マルサの女』(1987年)に引用されている。 たまたま似ているというのではなく、私は、「引用」されているとみなす。おそらく断定してまちがいないだろう。 【追記:2022.10.05】さらに私は、1994年に公開されたアメリカ映画、フランク・ダラボン監督・脚本『ショーシャンクの空に』の冒頭部分を思い出した。実は無実である主人公アンディの裁判法廷で、判決を言い渡した裁判官のアップが、そのままカメラのレール移動で後退し、裁判官の表情が見えないほど小さくなってゆく。・・・『悪い奴ほどよく眠る』からの引用と明言できないし、あるいは『マルサの女』からの引用かもしれないとも思う。念のため各作品の制作年(公開年)を比較したうえで、フランク・ダラボンが原作者スティーヴン・キングから映画化権を購入したのは1987年であったが、脚本執筆に着手したのはその約5年後、映画が公開されたのは上記の1994年である。 前作『隠し砦の三悪人』が、スピルバーグ監督の『スター・ウォーズ』のストーリーに影響をあたえ、藤原釜足と千秋実が演じる又吉・太平のデコボコ・コンビがロボットR2D2とC3POのコンビとして引用されたことは、すでに衆知の有名な話だ。『七人の侍』がジョン・スタージェス監督『荒野の七人』に翻案されていることも、いまさら言う必要はない。 話は横道にそれる。 日本文化が海外に与えた影響といえば、多くの人が能や歌舞伎、あるいは茶道や生け花、また柔道や空手などをあげる。しかしいわゆる「文化輸出」の点からは日本映画が最も影響力をもっているのである。現在ならさしずめコミックとアニメーションということになろうが、それに替わるまでは映画だったと言ってよい。それは能や歌舞伎の比ではない。つまり日本映画は欧米で幾人もの映画作家誕生にすくなからぬ影響をあたえてきたのである。スピルバーグやコッポラはみずからそう告白しているし、ヴィム・ヴェンダースのように小津安二郎の影響を告白している監督もいる。 能は、その関係者の自負はともかく、欧米の演劇人を育てたとまでは残念ながら言えない。たしかにイェーツのように、能に影響された戯曲『影の女』や『鷹の井』のような優作を生みはした。しかしやはり今のところエスニック文化に対する好奇心をもった鑑賞者といってよかろう。 柔道の場合は、いまやフランスが柔道人口で世界一となるほどで、オリンピックにみられるとおりもはや日本柔道というより世界スポーツとしてのJUDOである。それは素晴らしい事だ。しかし、この場合は、文化的産業として日本に還元されることは少ない。「文化輸出」を考えるときに、そこにひとつの問題点がでてくる。 日本のコミックとアニメーションの成功は、作品の質とともに経済面が押さえられていることが重要だ。 さて、日本の現代美術はどうだろう。ひところに比べたら世界の注目度はアップしていることは間違いない。しかし、じつは肝腎の国内での一般の意識はまだ100年前の美意識にとどまっていると言えるかもしれない。アメリカが、現代美術の先端を行く国として、国家として威信をかけて動いていることと、日本の状況はまったく比べ物にならない。 『摩天楼はバラ色に』という、ごく軽い娯楽映画がある。この映画は全然アメリカ美術のことを描いているわけではないが、じつは画面のあちこちにアメリカ現代美術をとりまく環境を見て取ることができる。私は一度そのことについて、このブログの別館『山田維史の画像倉庫』の「映画の中の絵画」で書いてみようと思っているのだが、なかなかできずにいる。「映画の中の絵画」は、もう2年間も手付かずのままだ。 まあ、それはともかく、1点ものの絵画・彫刻等の美術と多数の観客動員を見込む映画とはビジネス面でおおいにことなるのだが、しかしアメリカのように国のバック・アップもないところで日本映画は大変な健闘をしてきたのだ。映画ファンとしては是非とも言っておきたいことである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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