山田維史の遊卵画廊

2021/08/19(木)09:56

六代目三遊亭圓生の落語を聴きながら

日常雑感(2070)

 あいかわらずの作品制作だけの毎日だ。  先日までBGM代わりに英語のオーディオブックをイヤフォーンで聞きながら執筆していた。就寝前には英語の原書を読み、早朝も、起きるには早いと思うと、また原書を読む。三日前に一冊読了し、すぐに新しい原書を読み始めたのだが、BGM代わりの方は一転して六代目三遊亭圓生の落語をつづけざまに聴いている。  私は落語をよく聴く。圓生師匠の語りには酔ってしまう。名人と言われる人は少なくはないが、私が酔ってしまう落語家は六代目圓生だけだ。  いまは私は執筆しながら聴いているのでお声だけだが、国立演芸場の高座の記録映像を見ていると、その仕方話し、つまり身振り手振りの一人芝居だが、感動で目が潤んでくる。笑いながら泣く始末だ。  たとえば「掛取萬歳」は大晦日に押し掛けて来る借金取りを、その借金取りの嗜好道楽を演じながら追い返してしまう噺。三河屋の借金取りは三河漫才が好き。そこで即興で三河漫才のまねごとをしてみせる。このときの圓生師匠のお顔がすばらしい。目元・瞼のあたりがすっかり「笑い大黒」の顔になっているのだ。これには私は本当にびっくりした。すごいなー、すごいなー、と思わず口から出てしまった。しかもこの直後に、借金取りを追い返して「してやったり」と大きく目を開く。そのため「笑い大黒」の顔が一層印象に残るのだ。この緻密な計算にも私は驚きながら酔ってしまう。  あるいはまた「妾馬(八五郎出世)」。美人の町娘が殿様に見初められて御部屋様となり世継をもうけた。粗野な兄に御目見えが許され、御前で酒が供される。その光栄に老母を想いながら泣き笑いの酒を飲む。それを演じる圓生師匠のお顔がしだいに酔った赤ら顔になってくる。まさか高座に置かれた口湿しの茶が酒ではあるまいにと思いながら私は気が付いたのだ。懐から取り出した手拭で泣き笑いの涙を拭うのだが、じつは客に気付かれないように目元や頬のあたりを擦っていられるようだ。つまり手拭で少し強く顔をマッサージしていられる。なるほどお顔が赤くなるわけだ! 私はこれにもびっくりした。  明治のお生まれなので、江戸の風情を、知識だけではなく身体で表現される。時代を身体で表現するのは、たんに「名人」と持ち上げられているような人にはできないこと。そんじょそこらの俳優にも出来る人はいまい。私は、誰がと思いつかない。  憎まれ口を言うが、落語という芸は、話の筋を聴いてもつまらない。  怪談噺の作者として著名な圓朝の「真景累ヶ淵」と「牡丹灯籠」とは全然違う噺なのだが、じつは話の作り方(ドラマトゥルギー)は、同工異曲と言ってもよいと私は思っている。だから長尺物の両者を高座に掛けるには、登場人物の真をきわめるような声色の演じ分けは当然のこと、身体仕種の存在感の表現ができなければおもしろくない。まるでそれぞれの人物が憑依したような変わり身の素早さ、さらには素にもどって語り部となるめりはり、これらが流れるように進行してゆく。・・・これを見、これを聴くことが、落語という芸のおもしろさ。木戸銭を払って寄席に行こうとおもうのである。  六代目三遊亭圓生の芸は、間然とするところがない。私は、圓生師匠の口跡の素晴らしい、江戸庶民ことばをじっくり味わう。  圓生師匠の落語は随分聴いた。ちょっと書き出してみよう。 「真景累ヶ淵(全)」「牡丹灯籠(全)」「御神酒徳利」「居残り佐平治」「突き落し」「三十石」「猫定」「文違い」「ちきり伊勢屋」「首提灯」「妾馬(八五郎出世)」「能狂言」「松葉屋瀬川」「田能久」「高瀬舟」「品川心中」「お藤松五郎」「一人酒盛り」「派手彦」「鼠穴」「火事息子」「浮世風呂」「鶉衣」「九段目」「髪結新三」「文七元結」「阿武松」「雁風呂」「盃の殿様」「百年目」「百川」「死神」「寝床」・・・まだあるなー、そうだ・・・「紺屋高尾」「金明竹」「後家殺し」「位牌屋」。  このぐらいにしておこう。また追々思い出すだろう。  アッ、これを忘れてはいけない。「中村仲蔵」。  圓生師匠の中村仲蔵を聴いて私は本当に涙ぐんでしまった。芸の工夫とはどういうことか、芸術とはどういうことかを、私は身にゾクゾクと感じながら聴いた。「中村仲蔵」を高座に掛ける落語家は何人もいるが、圓生師匠のそれは味わいが違う。  この味わいはどこから出て来るのかと思っていたが、圓生師匠がご自分の出自から晩年にいたるまでの履歴を話されるのを聴いて、私は何となく納得するものを感じたのであった。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る