山田維史の遊卵画廊

2021/08/19(木)09:42

落語における着物の描写

文化一般(9)

 六代目三遊亭圓生の「中村仲蔵」に私が感動のあまり涙ぐんだと昨日の日記に書いた。  中村仲蔵(1736-1790)は、実在した江戸の歌舞伎役者。中村中蔵の名の下級役者だったときに四代目市川團十郎に認められて、ご存知の『仮名手本忠臣蔵』五段目の斧定九郎を演じ、その役の工夫で一躍名をあげた。  その工夫というのは、これもご存知のとおり従来演じられてきた定九郎の熊の毛皮をまとった山賊まがいの扮装をガラリと変えて、今日の歌舞伎ファンが知る扮装にしたこと。すなわち顔は白塗り、頭は浪人風情の伸びた五分月代(さかやき)。黒羽二重の単衣(ひとえ)に白献上帯、朱鞘の大小を落し差し、腕まくりして着物の裾は尻からげ。ぬっと突き出た脚も白塗り。破れ傘。・・・ゾッとするニヒルな悪漢。  五段目はいわゆるスターが出ない場なので、江戸の観客は舞台など見ないで、弁当をひろげたり酒を飲み始めたりしたのだという。ところが中村仲蔵の定九郎の初日を観た江戸っ子たちは度肝を抜かれた。いままで見たことが無い定九郎が、伸び放題の月代から本水をしたたらせて凄惨な殺し場をやったのである。  落語の「中村仲蔵」は、この歌舞伎を衆知のこととして、下級役者中村仲蔵が定九郎像をどのように工夫してゆくかに焦点をしぼった噺である。私が涙ぐんだというのは、芸術的な創作にたずさわる者ならおそらく誰しも憶えがあろうことで、身につまされるのである。  さて、私は中村仲蔵が工夫した扮装について少し詳しく述べた。じつは圓生師匠の落語を聴きながら気付くのだが、落語のなかには登場人物の服装についての描写が意外に多いのである。  現代小説には、女性にしろ男性にしろ、和服についての描写はほとんど皆無と言ってよいかもしれない。着物やその着付けの描写で人物の属している社会、つまり階級、あるいは人物の本質に根ざした趣味嗜好、あるいは教養のようなことが、現代日本社会のなかで文化的なコンセンサス(一致した見解)を形成しなくなっているからであろう。谷崎潤一郎や三島由紀夫が書いた粋で折り目正しい和装、あるいはカタカナで女性のファッションをしつこく記述することで現代小説の新機軸を開こうとしたと思える舟橋聖一を、私は思い出しながら述べているが、それさへもすでに遠い時代の産物になったのかもしれない。  圓生師匠は時々、これから話そうとする江戸の文物や慣習について、「今のお若い方には、もうお分かりにならないでしょうが・・・」と、枕で語った。  そして言葉の問題で「落語家が演りにくくなっている」とも言っていた。しかし話しの途中で一々説明しては客の感興を削ぐこともあろうから、特に着物については描写はするけれども、それがどんなものかは説明しない。当たり前といえば当たり前。客の常識に頼らざるをえないのである。  ちょっと一例をあげてみよう。  「髪結新三(かみゆいしんざ)」は、やはり歌舞伎の演目にもある。歌舞伎では「髪結新三」というのは通称で、ただしくは『梅雨小袖昔八丈』。実話にもとづく芝居。実話と歌舞伎や落語とが大きく異なるのは、大店の娘「お熊」のキャラクターである。歌舞伎と落語では楚々とした可愛い娘となっているが、実話はまるで大違いの悪女。鈴が森で処刑された。この娘、黄八丈の着物を好んで着ていた。ところが悪女として刑場まで江戸市中を引き回された後は、江戸の婦女子は黄八丈を嫌い人気がない着物になった。  まあ、黄八丈は現代人にも馴染みがなくはない。昔は町娘が着る普段着だったが、現代ではむしろちょっと高価な八丈紬となっていて、それかあらぬか私は慶事の場に黄八丈の婦人を見て内心に呆れて驚いたことがある。  しかし、落語「髪結新三」の中で、源七親分が入墨者の新三に掛け合いに行くときの装いは、どうだろう? おわかりになるだろうか?  耳だけが頼りの落語なので、その描写を仮名だけで書き出してみよう。  〈さつまのあらいかすりのきもの、はったんのはばひろのおびをしめ、きんのどうがねづくりの すこしこながいわきざしをさし、あおきんのかなもののついた ひとっさげのたばこいれ、どうじまのげたをはいた〉  私ももちろん圓生師匠の声だけ聴いているのだが、ためしに漢字まじりで書き直してみよう。たぶん間違っていないと思いながら。  〈薩摩の粗い絣の着物、八端の巾広の帯を締め、金の胴金造りの少し小長い脇差を差し、青金の金物の付いた一っ下げの煙草入、堂島の下駄を履いて〉  薩摩絣の着物。八丈島産の(座布団などに使う、博多献上などよりぐっと格が下がる)八端織の巾広帯。金の胴金造り(刀の鍔と鞘との間に取り付けた金具)の脇差。青金の金物が装飾された煙草入。草履下駄すなわち畳を貼った堂島と称した下駄。  と、源七親分はこのような装いで出かけたわけだ。この日が端午の節句だったので少し粧したのだが、私が唸るのは、粧したとはいえ侍が着るような物ではまったくなく、浅草乗物町の親分らしく男っぽい薩摩絣、しかも明治時代の書生っぽが着たような絣ではなく、わざわざ粗い絣としてしている。帯は、普通の男帯はいわゆる巾六寸の角帯を二つ折に仕立ててあるが、粋好みはさらに巾を狭くして締めた。源七親分が巾広にしたのは、一悶着起って刃物沙汰になったときの腹のガードのため(これは私山田の解釈。噺のなかではそんなことは言っていない)。その帯に少々金のかかった青金を象嵌した煙草入を紐で提げている。畳を貼った草履下駄は、もともとは京都でつくられた。それが次第に江戸でも履かれるようになり、堂島とか半四郎などと称したデザインが流行した。このデザインはどうやら下駄の歯の型らしい。  あるいは「派手彦 」という噺では、やはり乗物町の若い美人の踊りのお師匠さんの着物について語っている。  「小紋縮緬の一つ紋の着物、黒繻子の帯をやの字に締め、頭は文金高島田」  簡単な描写だが、これだけで充分「粋」がイメージできる。着物はみな絹織物。しぼのある江戸小紋なので照りが抑えられているが、黒繻子で艶をだす。しかも半幅にして「や」の字のかたちに締めているのだ。  前述した中村仲蔵が工夫した斧定九郎の黒羽二重の単衣に白献上の帯という衣装は、定九郎が侍崩れであるからだ。中村仲蔵以前の定九郎の衣装が山賊まがいの熊の毛皮をまとっていたらしいので、それでは定九郎の出自がまるでわからない。中村仲蔵の工夫は単に観客の意表を衝くだけではなかったのである。  着物が人物の出自を表わす。古典落語にはそれが端的に表現されている。定九郎と源七親分の衣装の違いのように。  落語という話芸による描写であるが、時代の寄席の客はそれを聴いてイメージできたのである。・・・文化とは、そういうことだ。良いことにしろ悪いことにしろ、社会の「総意」を形成しているのである。

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