山田維史の遊卵画廊

2023/06/10(土)07:51

美空ひばり映画『牛若丸』をめぐって一つの解釈

映画・TV(153)

 芸術作品はそれを観る人、読む人、聴く人によってそれぞれの解釈がある。作者の意図しないような解釈も出るであろうし、作者の意図をよろしく超える解釈が出ることもあるだろう。それらさまざまな解釈に対して、多くの作者は反論しない。それが芸術作品の本来的な宿命だからである。しかしながら、芸術作品の隠れた「謎」解きのような昨今の流行をどう考えたらよいだろう。そもそも作者だけが知り得る秘密を、「謎」として作品に潜在させることがあり得るだろうか。作者は常に何事なりとも意図して、不特定多数の観客(読者、聴衆)に伝えるために思考と技術の限りを尽くしている。それが「表現」ということだ。観客に伝わらない「謎」を作品に潜在させたとして、それに何の意味があるだろう。表現しない表現者など、自己撞着以外ではないだろう。作者の表現を見て取ることは、その観客の感覚や知に関わることなので、見てはいても何も見えない人もいるのではあるが・・・ さて、以上は前置きである。 1952年9月17日に初公開された松竹映画、美空ひばり主演『牛若丸』を先日70年ぶりに再観して、子どもの私が思いもしなかった一つの解釈が成り立つかもしれないことに気がついた。果たしてそのことが、映画制作者の意図したことだったかどうかは判らない。 製作・杉山茂樹、企画・福島通人、脚本・八住利雄、監督・大曾根辰夫。 企画者の福島通人は横浜国際劇場の支配人だったが、美空ひばりの才能を認めてマネージャーになった。美空ひばり映画のほとんどが福島通人の企画である。美空ひばり出演映画は全160本以上あるが、『牛若丸』以前にすでに31本の作品がある。(Wikipediaによる) 数多い ”ひばり映画” のなかで、『牛若丸』はほとんど話題にされなかったかもしれない。その理由がわからないでもない。 ”ひばり映画” の特徴は、ひとことで言えば、明るい華やかさである。大衆の嗜好を知り尽くして、恋あり歌あり、じめっとしないほどに涙あり、何より活力にあふれ、娯楽に徹している。しかしながら、『牛若丸』はいささか暗い。物語はフィクションであるが、史実に寄りかかっているので美空ひばり流の華やいだ娯楽に徹していない。それだけに、特異な作品と言えよう。 美空ひばりは牛若丸と桔梗という名の少女と、二役演じている。桔梗はフィクショナルな創造であるが、美空ひばりに二役演じさせる企画は、観客の反応を知っている企画製作力である。このフィクションの創造で映画が生きた。歴史書ないしは古典文学に依拠した映画において、一種の思想的対立を映画制作者がフィクショナルな人物を造形して制作者の立場を伝えるドラマ作法は、日本映画ではかなり珍しいかもしれない。  ちなみにご存知歌舞伎『勧進帳』は、義経と武蔵坊弁慶の安宅の関における物語である。この『勧進帳』と、同材の能『安宅』とを下敷きにして、黒澤明は1945年(昭和20年)に大河内傳次郎の弁慶で『虎の尾を踏む男達』を制作した。しかしGHQは、義経と弁慶の主従関係が民主主義に反するとして上映を許可しなかった。公開されたのは1952年4月26日(二日後の28日に占領終了)である。美空ひばりの『牛若丸』の公開年と同じ年、『牛若丸』より4ヶ月と9日早かった。私は後年、『虎の尾を踏む男達』を観た。  私の子ども心に深く刻まれ、いまだにあざやかに甦るのは、先日述べたとおり、牛若丸と桔梗が手をつないで鞍馬寺の山道を駆け登ってゆくシーンである。そしてこのシーンに、私は1952年という公開年の時局に鑑みてひとつの解釈を試みたくなるのである。  『牛若丸』の時代設定は、貴族政治から武士政治へと変わりつつあった1100年代後期。絶え間ない覇権争いと荘園(領土)獲得争いによって国中が荒廃していた。保元の乱が1156年。平治の乱が1159年。この戦で平清盛が藤原信頼と源義朝(牛若丸のちの源義経の父)を破った。翌1160年、源義朝は尾張の国で家人の長田忠致・景致親子の裏切りで落命し(史実。映画では言及無い)、源氏の衰退がはじまった。映画の物語はこの時点から始まる。源氏絶滅を狙う平清盛に、義朝の妻常磐御前は身を差し出し、代わりに幼児牛若丸の命乞いをした。牛若丸は、源氏から寝返って清盛に扈従した新田太郎吉光の監視下に鞍馬寺に預けられた。そして、母は死んだと聞かされたまま、いまや心ひそかに源氏再興を夢見る少年に成長した。自分の意志とは関わりなく出家修行させられる身に、友達は新田太郎吉光の娘桔梗だけである。  さて、私の記憶に刻まれたシーンは、先に述べたとおり、この寝返った裏切り者を父にもつ娘桔梗と牛若丸が、手をつないで山道を駆け登るのであるが・・・ 私は今、このシーンにこの映画が公開された当時の時局を重ねてみる。  戦後占領期(1945.9.2~1952.4.28) が終わってようやく5ヶ月になるところだった。7年間という長い占領に日本国民は、口にこそ出せなかったが、そろそろ飽きてきていた。9歳の美空ひばりがデビューしたのは、まさにその頃である。天才少女歌手はその活力ある歌声でみるまにスターダムにのしあがってゆく。 どっかり「君臨」していた占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、すでに1950年4月11日付けでトルーマン大統領によって解任されていた。マッカーサーは5日後にアメリカに帰国した。しかしその1年前、1949年2月、アメリカは日本の市場経済をふたたび活性化させるという目的で使節団を派遣してきた。その中に、独裁的に敏腕を揮うことで知られたジョセフ・ドッジがいた。彼は「経済の帝王」と称されていた。日本国民は二人の「君主」に統率されることになったのである。いや、国民にしてみれば三人だった。二人の君主の下に、その意向を実現すべく、国民に対して時に巧みに詭弁を操る吉田茂内閣の日本政府があった。 ジョセフ・ドッジの有無をいわせぬ方針は、「ドッジ・ライン」と言われた。子どもの私の耳にもその言葉は残った。ここに詳しくは述べないが、彼の日本経済についての根本的な考えは、消費を抑制し、安価で輸出を促進するということだ。そのために円の切り下げがされた。彼は独断で1ドル=360円に設定した。この為替レートは随分長い間、昭和40年代までつづいたように私は記憶している。 ドッジの企業合理化策と吉田首相が強力に押し進めるレッド・パージ(赤狩り)との併用によって、数万人の労働者が失業した。これにより労働運動が弱体化した。そして、戦前の奴隷労働にも似た労働条件下にあった人たちを、戦後に解放したはずの労働規準法の労働関連諸法が、ほとんど有名無実になった。公共事業や福祉や教育関連の予算はバッサリ削られた。 とはいえ、これで日本経済が上向きになったかというと、そうは行かなかった。国際状勢は日本の外側で大きく動いていたのだった。価格を下げたからといって輸出が伸びたわけでもない。 国民の心は日に日に不安に沈んで行った。国民は、政府上層部には終戦直前に国有財産である軍需物資を隠匿して私腹を肥やし、終戦直後にはそれらを闇市に流して私腹を肥やした人物が少なからず存在していることを知っていた。「裏切り者」が戦後政治の中枢で大手を振っていることを知っていた。 ところが1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。日本は思わぬ「特需景気」に湧いた。アメリカに要請されるかたちで軍事産業が復活した。いままで眠らされていた日本人の緻密な機械整備技術にアメリカは目をみはった。アメリカは日本の再軍備を求めた。30万兵を擁する軍隊をつくれという求めである。吉田茂首相はアメリカと日本国民に対して詭弁で説得し、「軍」という名称ではなく「警察予備隊」をつくることで両者をまるめこむことに成功した。「警察予備隊」は、30万兵とはいかないが、7万数千人を擁し、れっきとした兵器を備えた。新たらしい日本国憲法に明示された「平和主義」と「民主主義」は、これを主導してきたアメリカによって有形無実となり、食うに困らない、着るに困らない、寝る所に困らない・・・人間の幸せがそこにあるとすれば、いまや日本国民はまさに幸福を手にしたのだ。  そして、吉田茂首相の詭弁を用いる政治技術は、その後の政権を担う政治家に「遺産」として引き継がれることになる。  心ある人は気がついていた。「他人の苦しみによって我身の幸福はあるのだ」ということに。そして日本人はこのときから、心に捩じれをいだくようになるのだ、と。捩じれから生じて心に潜在する闇だ。押し込めようとすればするほど、限りない深さにもぐってしまう闇・・・  『牛若丸』において、牛若丸と裏切り者を父にもつ娘桔梗が、手をつないで山道を駆ける姿に、私が上記のような思いを重ねるのは、制作者の意図するところではないかもしれない。しかしながら牛若丸と双子のようなフィクショナルな桔梗を創造した意図・・・それについては述べないでおくが・・・は、たんなる娯楽一辺倒に終始するものではあるまい。戦中戦後の自局が、平安時代末期の歴史的事実のフィクショナル化を通して、象徴的に形象化されていると、私は思うのだ。  黒澤明の『虎の尾を踏む男達』が同監督の初期作品として注目されるのは、その後の『蜘蛛巣城』の先取りとなる能の様式美を取り入れていることと、大俳優大河内傳二郎が主演し、また、これも後の『隠し砦の三悪人』の千秋実と藤原鎌足が演じた凸凹コンビ(喜八物の伝統による人物)の滑稽の先取りとなるエノケンこと榎本健一が滑稽役を演じたこと、そして何より巨匠監督の若き日の作品がGHQの検閲によって上映不許可になったことが挙げられよう。  その黒澤作品と登場人物をほぼ同じくし(片や少年時代、片や青年時代ではあるが)、公開も1952年で同じであるけれども『牛若丸』がほとんど語られることがなかったのは、大曽根辰夫監督にとっては残念だったかもしれない。美空ひばりがデビュー当初から「こましゃくれた子供。子供のクセに」と音楽関係者から蔑視され、その人気にもかかわらず出演映画は一段低い「大衆娯楽作品」とみられていたこと、しかもその "ひばり映画” の中でもいささか暗く、異質であったことが、語られることがなかった理由かもしれない。が、両作品を観た私の感想は、大曾根辰夫監督の『牛若丸』は、新田太郎吉光が敵に寝返った裏切りを、愛する娘の死によって目覚める、史実を離れて創作した物語の結構は、時局に照らして志操的(そして思想的)な象徴性の点で、黒澤明『虎の尾を踏む男達』より一層の深さがあると思う。  ・・・それもまた観客の解釈次第。黒澤明は自分の映画が解釈されることを嫌ったと思えるふしがある。上記の私感も、とりあえずは、観客の解釈は自由だということにしておこう。芸術的表現者はむろんのこと、そうでない人も、嵐の船出に関わりない言動などありえなかったのである。そして、大曾根辰夫監督『牛若丸』は、その時節に幼児だった私の最初の映画経験であり、その映像は70年後の現在まで記憶されたのである。

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