下の書籍画像『戦闘帽の中学生たち』は、私の母校・会津高等学校の前身である旧制会津中学校の昭和17年4月に入学し昭和22年3月に卒業した第53回生が、戦時中の学校生活や学徒勤労動員に出動したときの各自の手元に現在まで残っていた日記あるいは随筆を編集し、「会中五三会」と称した同窓生(当時すでに70歳を越していた)が、1991年の終戦記念日8月15日に刊行したものである。
ちなみに五三会の生徒たちが入学した昭和17年4月の18日に米軍機による日本本土初空襲があった。1年生たちは24日(金曜日)に白虎隊墓前に参拝し (24日は翌命日。旧制会津中学校の前身というべきは白虎隊の少年たちが通った藩校日新館である)、1週間後の5月1日に防空演習および令旨奉読式があった。二学期からは早々に勤労奉仕に出勤し、市東部の東山伐木や植林作業、あるいは農山村で作業をし、また小田山忠霊堂建設にたずさわった。そして後には会津を離れ三菱製鋼、ヂーゼル自動車、東京衛器、星野鉄工所等々へ出勤した。
本書を私に贈ってくださったのは、「会中五三会」の刊行委員・清水和彦氏である。清水和彦氏はしたがって私の母校の先輩ということになるが、実は私が会津若松第三中学の生徒だったときの体育教師であり、私が会津高校に入学するとすぐに先生が創立者の一人であった劇団『童劇プーポ』に引き入れてくださり、その年の10月、劇団創立10周年記念公演の木下順二作「おんにょろ盛衰記』に村人の役で初舞台を踏んだのだった。大学入学のために退団し、その後40数年間、私は先生に何の連絡もしていなかった。先生は方々に手紙を出して私の消息を尋ねていらしたらしいが、ひょんなことから互いの所在を知った。最初の電話で先生は、「どこさ手紙出してもみな還ってくるので、おめえはもう死んだんじゃなかっぺかと思っていた。生きていたか!」とおっしゃった。私は60歳になっていた。
その後は手紙のやりとり、電話での話が、お亡くなりになるまでつづいた。その間に、「みんなでこんな本を出版した」と、『戦闘帽の中学生たち』を2冊贈ってくださった。私は一読、大変貴重な記録と思い、また付録として28ページにわたって掲載されている当時教師だった鈴木英一氏の戦時中の農事記録・学校行事全記録(年月日および曜日あり)も珍しく、かつて大東亜戦史には稗史を含めても出てこなかった記録であると思った。私はすぐに1冊を東京都立中央図書館の収蔵課に清水和彦の代理人として寄贈した。図書館から館長名で礼状があった。
下のDVDは、同書のDVD販であるが、清水先生の同級生であり本書刊行委員の赤城良一氏が私家版として制作されたものである。赤城氏に私はおめにかかったことはないのだが、清水先生の話から、私の中学校の同級生赤城M子さんのお兄さんなのだった。M子さんには私は彼女が結婚後、子供連れで東京で2度会っていた。
清水先生の「会中五三会」の同級生で、もうお一方、私が良く存じ上げていた人がいる。八総鉱山診療所の医師だった丸山一郎氏である。小学生だった私は水棲昆虫・幼虫を採集していたが、私は丸山先生に消毒済みの薬瓶をたくさんもらい、それを使って標本を作っていた。またあるとき、何が原因だったか忘れたが、診療所に行きペニシリン注射をすることになった。体質に適合するかどうかのテスト注射をされて、しばらく待合室で待つように言われた。私は、あらかじめ適合検査をしなければならないような注射をするのはゴメンだと、黙って家に逃げ帰ってしまった。丸山先生は患者が消えてしまったのでびっくりされたであろう。そのことがあってから、私が体に不調があると母は私を丸山先生の自宅に連れて行った。先生の自宅は私の家の3軒隣りだったのだ。
清水先生は私の消息を知った後で丸山先生に私のことを話されたそうだ。丸山先生は小学生だった私を憶えてくださっていたという。診療所の件で亡父にいろいろ便宜を図ってもらったとも言っておられたとか。そして丸山先生の弟がやはり私の若松三中の同級生だった。マルちゃんは陸上競技(100m走だったかな?)の中学生記録保持者で、その記録は後年までずいぶん長い間破られることはなかった。毎日の練習で汗だくになるのだろう、天花粉(ベビーパウダー)の匂いがした。
その後、清水和彦先生の喜寿をお祝いするために、私は42年ぶりに会津若松市を尋ねた。わずか一泊だけの旅行だったが、帰京してから清水先生から電話があり、私が帰った翌日丸山先生がお亡くなりになった、と。・・・そして清水先生も亡くなられた。
『戦闘帽の中学生たち』に掲載されている旧制会津中学校の若者たちの写真を見ながら、本書が1991年の終戦記念日にあわせて出版された8月15日、そして今日第79回終戦記念日に、私の個人的な思い出とともにここに紹介した。
清水先生、赤城氏、丸山先生たちが使用した旧制会津中学時代の校舎は、私の時代もまったく改造されることなく使われていたことが、会中五三会のクラス写真によって私は知った。・・・しかし、私が3年生の初冬、その校舎は不審火のために全焼してしまった。なんとも遣る瀬無い気持である。(この事件については、このブログ日記の2006年1月11日・12日に書いた。12日の日記には事件翌々日に私が撮影した火災現場写真を掲載した。)