先日来、江戸時代の秋田佐竹藩を拠点にして各地の民俗探訪を書き残した『菅江真澄遊覧記』(平凡社刊)を、少しずつ読み直している。昨夜は第二巻収録の〈えみしのさへき〉を読んだ。渡航を制限されていた蝦夷地(北海道)に行き、西側の海岸伝いを探訪、1789年(寛政元年)4月19日に起筆した日記風の記録である。
5月に入り、奥尻島が見える奥蝦夷の厚沢部(現在の厚沢部より西方に広域だったかもしれない)あたりまで足を運び、そこから引き返した。5月8日、熊石(現・爾志郡熊石町)に着き、降り続いていた雨もやんだが、菅江真澄は疲労のためか頭痛がして、宿にとどまったが、近くの門昌庵という寺に或る上人を訪ねた。
その上人から菅江真澄は、ずっと後年に「門昌庵騒動」と言われることになる物語を聞かされた。菅江は次のように書いている。
「上人は、この寺の由来を語ってくれた。福山の法憧寺の六世にあたる柏岩峰樹和尚は、世に知られた出家ではあったが、女色のこころがあると、人の讒言によって山越の罪をうけ、遠くこの浦に流されたがその方が建てられた庵である。ここで仏道修行をしておられたが、ますます讒言が重なってなお罪を重くされ、いよいよ斬られるということになり、その討手がむかってきた。峰樹はもってのほかと無念に思い、わたしは無実の罪をうけてここに斬られよう、命はめされようとも魂は天に飛び地に去って、この恨みをはらそうと、りしぶをとり、さかぐりにくってうたれなさった。その首を福山でさらし首にしようと持っていく途中、道が遠いので江差の寺に一夜とまった。ところがその首をおいた一間から火がでて、この寺はすっかり焼けおちた。その後、このような怨念によるたたりがしばしばあらわれたが、そちこちの方のお祈りのおかげで、いまはまったくなくなったという。」(平凡社版第二巻、165~166p)
さて、この門昌庵と江差の寺の焼失事件は、私の家とは遠い因縁があり、私はこのブログ日記を開設して程なく2005年12月22日に事件の顛末について「冬の夜の怪談」と題して書いた。いま繰り返して述べないが、菅江真澄の記述に抜けていることがあり、その点だけを述べると、実はこの事件の根は菅江真澄が話を聞いた時より117年前の松前藩主十世松前矩廣(1659-1720) の時のいわゆる「御家騒動」にあった。菅江真澄は蝦夷地渡航を松前藩の厳しい制限をくぐって来ていたので、お家騒動のことを聞いたとしても松前藩について記述できなかっただろう、と私は推測している。しかも柏岩和尚(ただしくは「柏巌」である)が讒言で「女色」の相手とされたのは、新婚の藩主矩廣の妻だった。根も葉もない讒言とはいえ、これでは菅江真澄も書けなかっただろう。
・・・私の家との遠い因縁というのは、江差の消失した寺を幕末になって再建したのが曽祖父顕月なのである。消失した寺は浄土宗東本願寺別院の塔中の円通寺だった。曽祖父顕月は、寺名を再興するために、もとの場所から数里離れた土橋に新しく寺院を建立した。
私の手元には「門昌庵縁起」という薄い冊子がある。私が10歳頃に祖母から数冊の和書仏教典とともにもらった。ぼろぼろになったので祈祷して焼却するところだった古典籍を、祖母が「救出」して箪笥にしまっておいたものを、私なら大切に保存するだろうと、こっそり手渡してくれたのだった。「門昌庵縁起」も日焼けしてい、最初の1ページは失われていた。(下の画像)。
なお、この「怪談」は荒巻義雄氏のSF『神州白魔伝』に出てくる。この小説が角川書店で文庫化されたとき、編集部は私の家との上述の遠い因縁を知らずに私に装丁画を依頼してきた。私も黙っていた。

