人が何かを行ったのは動機があったからだ。
それが無い人間は生きているとは言わない。
全ての物に理由はある。
肝心なのはそれに気付けるか、否かということだ。
他人のそれに気付いても大して得るものはない。
けれど自分の動機を明らかにしたのなら、それは……
何よりも得難い価値を持つだろうさ。
『彼の動機と彼女のルール』
彼女は逃げていた。昨今、巷で話題のアイドルなら追っかけやパパラッチを避けるなんて日常茶飯事だろう。
しかし、ヒールを脱ぎ捨て、裸足同然で走る必死さから相手がただの追っかけでない事が窺える。
事実、彼女に好意を抱いている輩はあの中には居そうにない。
その集団は血眼になって彼女・現役アイドル、柏木望(かしわぎのぞみ)の行方を捜していた。
「探せ! 絶対に見つけ出すんだ! 彼女を逃がした事がボスにバレたらクビじゃ済まんぞ!」
まだ成人に達していない少女は大勢の男に追われ、精神的にも肉体的にも限界が来ていた。
「なんで、私がこんな目にあわなきゃいけないの? いつも! いつも!」
それは誰かに向けられた問いではなかった。
けれど、それに答えるものがいた。
「運が無いんだろ?」
その声は反響してどこから聞こえているのか判別できない。
「誰!?」
望は怯えながらも辺りを見回すが、声の主を見つけられず空耳だと思うことにした。
彼女がいるのは貨物車が運ぶようなコンテナが立ち並ぶ埠頭のようだ。そして望は人一人分が入れる隙間に身を忍ばせる。
どうやらここは、たいそう人気の少ない場所らしい。
望にはもう走って逃げる体力が残っていない。だから隠れてやり過ごすしか選択肢は無かった。
一度見付かれば、もう二度と平穏は訪れないという確信のような不安が心をいっぱいにし、彼女の体を必要以上に縮こまらせた。
息を潜め、足音が近づいてこないことを神に祈る望。
事実、幾ら能無しな連中でも二度もヘマをやるとは思えない。足を折ってでも逃げる手段を断つに違いない。
もし神が慈悲深いなら彼女をこのまま隠し通しただろうが、現実は無慈悲だ。
「鬼ごっこは止めか?」
「ヒぃッ!」
望は小さく悲鳴を漏らした。またもキョロキョロと頭を動かすが見つけられずにいる。
そんな様子を見て痺れをきらしたのか、男はコンテナの上から飛び降り、実に静かに着地した。
「……!」
望は突然目の前に現れた男に驚き、言葉を失った。
男の格好は不審者そのものだった。
黒いレインコートを頭からすっぽり被り、フードの奥から覗くメガネが目や表情を隠した。その風貌は不気味ですらあった。
しかし、望にとってはすがり付きたいほど最後の希望だったのだろう。
彼女を追っている集団とは服装から雰囲気まで共通点の無い、この男に彼女は助けを求めるほか無かった。
「た、助けて! 助けてください! 私! 誘拐されて、追われているんです! 警察を呼んで!」
必死の声だった。一般人なら彼女の存在をTVなどで一度は目にしているはずだし、涙を零しながらの必死の訴えを無下に断ることは無いだろう。
「それは出来ない」
男は彼女の最後の希望を断ち切った。
メガネの向こうの蒼い瞳が目を逸らすことなく望を見た。
その瞬間、望は悟った。この男も自分を追っている連中の仲間なのだと。
「君を攫ってきたのはボクだからね」
望はその場に崩れ落ち、頬を涙が伝った。
そして、男の後ろからさっきまで血眼になっていた連中が慌ててやって来たのがにじんだ視界に映り、やがて体力と気力の尽きた彼女は意識を失った。
望は再び捕われの身となり、後ろ手に手錠を繋がれていた。
自由を奪われている彼女の目の前には先程のレインコートの男が椅子に座って目を閉じていた。
男の呼吸は静かで寝ているのかそうでないかは望にはわからない。
「ねえ、あんた」
分からなかったが望には寝ていないように感じられた。仮に寝ていたとしても起こす気で男に話しかけた。
男は目を閉じたまま返事だけが返ってきた。
「黙っていた方が身のためだ」
望は憮然とし、それでもめげずに話しかける。
「ここはどこなの? あんた誰なの!? なんでこんなことするの!!?」
「埠頭。殺し屋。依頼されたから」
殺し屋と名乗った男は素っ気なく質問されたことを答える。
「殺し屋? 依頼って誰に?」
望は自棄になっているのか怯まずに質問攻めにする。
「言っても分からないし、言わない。それはルール違反だ」
「だったら……」
「もう喋るな。口を塞がれたいのか?」
男は始めて目を開き、その碧い瞳で望を見た。
「……」
恐怖を与える目つきではないものの、吸い込まれそうな瞳に見つめられ望は一時言葉を失った。
「ならこれで最後の質問にするわ。私をここから連れ出してくれない!? お金で雇われてるならその金額より出すわ! 今ならサイン色紙と握手とファンクラブ会員番号00000番の称号もあげるわよ!」
望は危機的状況に陥っているからなのか、無理な提案をする。
男は呆れたように再び目を閉じ、彼女を無視した。
「無視しないで!」
「一個人が出せるような金額じゃない。仮に出せたとしても君の依頼は受けない」
「なんで!?」
アイドルとしての自分を否定されたように感じ、憤慨する望。
「依頼は順番に受けるようにしているんだ。信用第一の商売だからな。途中で投げ出す真似はしない」
「じゃあ私はこの後どうなるの?」
「知らない。ボクは柏木望を依頼者の元に届けるだけだ。その後は知らない」
望は目の前にいる相手にフルネームで呼ばれたが、まるで積み荷の名称のように扱われたように感じた。
対峙している男は自分の事を一人の人間として見てはいない。
その事実がいっそう彼女を追い詰める。
「……」
望は目を閉じ、自分の置かれている状況を理解し前向きに考えようとしたが、どだい無理な話しだ。
それでも無理矢理に気分を切り替えて言葉を口にする。そうしていないと気が狂いそうだった。
「貴方の名前は? 殺し屋サン?」
男は気怠そうに再度、目を開けた。
「最後の質問じゃなかったのか?」
「貴方の仕事は何?」
「また質問をっ」
「殺し屋? なら今依頼されている仕事は? 私の護送でしょ?」
「……」
男には会話をする意志は無いようだが、とりあえず彼女の言葉を聞く。
「無事に、安全に、傷ひとつなく、誰かさんの所へ私を届けることでしょう? 違う?」
その問いを一気に言い切った彼女だったが、望は勇気を振り絞って聞いていた。
もし、【生死を問わずに連れて来い】が依頼内容だったらと思うと、もう何も救いがない。
うるさいと言われてこのままここで殺される事も考えられた。
「……」
男は依然として黙っていたが、それは黙認だと望は受け取った。
「私はこんな所で縛り付けられて平気でいられるような神経はしてないの。だからこのままだと気が狂ってしまうわ。それはマズイでしょ?」
望は目茶苦茶な理論を展開して男の口を割ろうとする。
「だから名前を言いなさい。そうでないなら手足を自由にして」
「RaiN-maker」
「なにそれ? 日本人じゃないの? そういえば目が碧いし、本名言いなさいよ本名!」
裏の世界では少しは通っている名も知らなければただの偽名でしかなく、望を納得させるには足りなかった。
「サツキ」
「苗字は?」
「滝乃木」
すっかり会話は望のペースとなり、望は緊張を少しだけ解く。
「よろしい。私は柏木望……アイドルやってます」
こちらも万人に知られているはずの名だが、TVも見ない殺し屋には分かるはずもなかった。
「最近じゃ、レギュラー番組も増えてき……」
自身の名を聞いてもサツキはまるでピンと来る様子がない。それを見越して望はプロフィールを説明しようと話しはじめたが、サツキが口を塞いでそれを阻む。
「しっ! 静かに」
外の異変に気付いたサツキは注意を望から複数の金属音へ向けた。
大きな音とともに倉庫のドアが開けられ、そこから差し込んでくる光が十数人の男達のシルエットを映し出した。
望には分からなかったが金属音の主は明らかに彼等が抱えている銃器だ。
そしてその銃口がこちらに向けられているのもサツキは瞬時に理解する。
全ての銃口が狙いを定める前にその数を減らすことは出来たがサツキはそれをしなかった。
その理由は単に依頼を達成するため。つまり望を無傷に保つためだった。
「大人しくしてもらおうか!」
男達のリーダー格らしい人物が声を張り上げる。同時に銃を構え、装填する音が幾つも聞こえた。
「お前達は包囲されている! こちらの要求に従わない場合は容赦なく発砲する!」
望の頬を汗が一筋伝い、彼女はサツキを仰ぎ見たが、当のサツキは怯えや慌てを見せる様子はない。というより何を考えているのかまるで分からない。
「まず武器を捨てろ! そのあと女をこちらに渡してもらう」
サツキは何もアクションを起こさない。
向こうの要求を素直に聞くのではないかと望が不安を抱く。
その不安をお構い無しにサツキはリーダー格の男に問いをぶつけた。
「これ以上醜態を晒さずにボクに任せておけって言ったはずなんですけど?」
数十の銃口が向けられているにもかかわらずサツキは挑発するような台詞を吐く。
「ぐぬ……言う通りにしなければ女もろとも撃ち殺すぞ!」
リーダー格の男は強気な態度に出るサツキに焦りを感じる。サツキとの格の違いを肌で感じながら、数の利がそれに勝っていると信じる他ない。
「はあ、嫌になるよ。人が苦労して攫ってきた娘を護衛するのがあなた方の役目のはずですよね? それを襲おうとして逃げられた揚句、あまつさえ今度は撃ち殺すですか」
「う、うるさい!」
リーダー格の男は怒りで、握っている銃をカタカタ震わせはじめた。
「あなた方の狙いはなんですか? またこの娘を襲うつもりなのかそれとも、ボクを殺して自分達の失態を帳消しにするつもりですか?」
「どちらもさ」
リーダー格の男はサツキが挑発を交え長話をしているのは時間稼ぎが目的であることに気付き、やや余裕を取り戻す。
「どちらも?」
「お前の口を封じて女も愉しむ。ボスはうたぐり深いからな。わざわざ雇った殺し屋を始末するにはそれ相応の理由がいる。例えば……お前が依頼対象の女に手を出したとかな!」
サツキはここにきて眉一つだけ動かした。その後ろで望の顔が青ざめる。
「なるほど。じゃあボクの命は始めからない訳だ」
「そういうことだ。13の銃口が相手じゃさすがの殺し屋も分が悪いだろう。しかし、俺は慈悲深いからな。どうだ? 取引しないか? 未来永劫ボスに公言しないと誓えばこの場から無傷で逃がしてやる」
勝算があってもサツキの余裕を警戒して撃ち合いは避けたい男。
「取引か……そうだなぁ」
望は祈るようにサツキを見上げる。サツキはそれに一瞥もくれず返答した。
「ダメだね。14人だったら流石のボクも分が悪かったんだけれどね。自ら戦力を明かす馬鹿相手なら楽そうだ」
リーダーの無能ぶりを大声で罵り、部下の信頼を根こそぎにする。そして万が一にも流れ弾が望に当たるのを恐れ、気付かれないような速度で左に歩き出す。
サツキは腰の曲がった老人のように腰をトントンと叩いた。
「起きろケルベロス。仕事だ」
そして誰か……いや、何かに声をかけた。その声は武装した男達には届かなかったが望には聞き取ることが出来た。
何の反応も無いので望は独り言だと判断を下す刹那、返答があった。
「相手の数は?」
「13」
「13人か。13という数は嫌いだ。後ろのを足せば14だな」
何が喋っているのか、サツキが誰と喋っているのか望には分からなかったが、どう汲み取っても有り難い話をしているようではなかった。
「我慢しろ」
「後ろの小娘を足せば14だ。13は嫌いだ。14にしよう。なあ?良いだろう?」
その『言葉』は命を単なる縁起物のゲン担ぎにしか捉えていなかった。
「ダメだ」
サツキは聞き分けのない子供を叱るようにきっぱりと言った。
「ちっ、分かった。あんたがボスだ。いつでもいけるぞ」
ケルベロスと呼ばれた声の主は渋々了解した。
サツキはいつでも攻撃を仕掛けられるように手を腰に置く。
リーダー格の男は未だ悠長に構えていた。
「これが最後だ。降参s--、」
そこで言葉は途切れた。言葉をひねり出せるはずも無い。もう、男に口はあっても言葉を考える部分、眉間より上が吹き飛ばされていた。
サツキが薄暗い中で、硝煙の上る銃を構えていた。
彼に銃を向けていた連中は肉片を巻き散らしながら倒れ掛かるリーダーに目が行き、サツキに応戦する事はできなかった。
怯み、たじろぎ、怯え、後悔、それらが統率を失った彼らの隙間に満たされると、一人が考えなしに銃を乱射した。
彼の目のどこにもサツキは写っていない。
銃弾は無計画に密集していた味方に当たり三人の命を奪った。
残り九人。
「君らはもう終わりだ。そちらこそ降参したらどうだ?」
姿を見せずにサツキが言った言葉は銃声にかき消された。
「う、撃て! 撃て撃て撃て撃! でぁ!」
パニックになっていた男の胸に穴が開き、男はその穴を見下ろしながら前のめりに倒れて死んだ。
残り八人。
続けざまに機関銃とは異なる銃声が上がり三人が倒れ、残った五人の足元が血溜りとなる。
一人がその血で足を滑らせ、銃を落とした。
それを拾おうと這う間にまた一人、血溜りに参加した。
残り四人。
そこで初めてサツキが男達の前に姿を現した。
流れるようにコートを揺らして歩く姿は悠然としてどこか現実離れしていた。
サツキの存在に最初に反応した男は、その腕に弾丸が打ち込まれ、銃を取り落とした。
その男を盾にして銃弾を防ぎ、喉に一発。
残り二人。
盾にしていた男を投げ、巻き込まれた男の後頭部にも一発。
残り一人。
他人の血で血だらけになった男はやっと銃に手を掛けるところだった。それを掴み、引き寄せるところで、機関銃はサツキの足で抑えつけられた。
銃口が隙間無く男の額に押し当てられた。
男は反射的に銃から手を離し、真っ赤に染まった両手を上にあげた。
「お、俺を殺したら、ボスが黙っちゃいないぞ」
男の声は震えていた。生き残るために何でもするというある種、動物のような本能さえ窺える。強い者には喧嘩を売らないという本能は無かったようだが。
「ボクはそのボスに依頼を受けているんだ。彼女を無傷で連れて来いってね。邪魔する者は……」
この期に及んで命乞い以外にできる事があるとも思えないが、まだ引き金を引かないのはサツキなりの優しさか、それとも油断か、はたまた好奇心か。
「な、ならボスになんて報告するんだ!?」
男はただ命乞いするだけでは殺されると分かっていて賭けに出ているのだという事にサツキは気づく。
「報告なんてしない。依頼を果たせば他にやる事は無い。それがプロだ」
この後、この男がどんな切り札を見せるのか気になっているのかサツキは会話を続ける。
「それでボスが納得するか?」
そのカードも段々と正体が見えてきた。
「納得なんか必要ない。文句があるのなら最初からボクに頼まなければいいだけだ。依頼を受けたら最後までやるのが僕のルールだ」
サツキは突っぱねる。男の最後の立つ瀬が段々と小さくなっていく。
「俺が報告する! 今すぐに、だ! こちら側の人間が証人になればボスも信じてくれる。俺があいつらの裏切りを証言するよ!」
まるで自分が関与しておらず、巻き込まれたような口ぶりで話す男。
機関銃を握り、引き金に手を掛けてサツキに向けていた事実は、彼の中ではもう過去の事になっている。
「あんたの悪いようにはしない! 約束する! 頼む! チャンスをくれ!」