397398 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

地獄のナルシサス

2019.02.03
XML
カテゴリ:歴史
ジローラモ・サヴォナローラ

ジローラモ・サヴォナローラ ( 1452年9月21日 - 1498年5月23日) は、フェラーラ生まれのドミニコ会修道士。フィレンツェで神権政治を行った。

サヴォナローラはフェラーラの中流階級に生まれた。彼の祖父は著名な内科医兼博学者で、叔父のミケーレ・サヴォナローラは占星術師として知られる。祖父の跡を継ぐためにフェラーラ大学に入学し、芸術の学位を取って医学校に進学する予定だった。しかしファエンツァで聞いた説教の影響で、父の家を捨て22歳の時ドミニコ会の修道士となる。

説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民を感激させた。

サヴォナローラが広く民衆の支持を集めることができたのはその著作がフィレンツェの印刷業者たちに次々と印刷されていったという印刷技術の影響も指摘されている。
信奉者は次第に増え、メディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチも、死の間際(1492年)にサヴォナローラを招いて罪を告白した(捏造ともいわれる)。

1494年、仏軍が侵攻を予言し信望が高まる。メディチ家はフランスへの対応を誤ったことからフィレンツェを追放され、サヴォナローラが共和国の政治顧問となる。サヴォナローラ神権政治が始まる
次第に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)から破門される。
清貧の道から外れる物品の焼却を命じる。裸体画遊び道具虚飾の品々は
焼かれた。

贅沢品として工芸品や美術品をシニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われ、市民生活は殺伐としたものになった。清貧の道をはずした者は密告され告発された。

画家サンドロ・ボッティチェッリも彼の影響を受けて華美な絵を書くのを止めてしまった。
ボッティチェッリといえばレオナルドダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロを超えるルネサンスの最高傑作とみる人もいる。
しかし彼の作品の大半が焼かれてしまいわずかしか残ってない。
しかしギリシャローマの美神を描いた作品は15世紀末からフィレンツエでは許されなくなった。禁欲的なキリスト教精神に立ち返るよう説教された。
イメージ 1イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
だがサヴォナローラの厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高まっていった。1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けた。
サバナローラを支持するドミニコ会の修道僧とフランチェスコ会の修道僧がそれぞれ火の中に身を投じ信仰の確かさを証明しようという宗教戦争だった。
ふフィレンツエ市民にとって火の 審判は一大イベントと化し火の 審判を一目見ようと集まってきた。しかし火中に身を投じる僧侶はあらわれなかった。

これは4月7日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが、4月8日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。彼は激しい拷問を受けた。教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。

彼の最後の言葉は「わが主は、わがすべての罪のために死にたもうた。私はこの貧しき生命を喜んで彼に献ぐべきではないだろうか」であった。

遺骨はアルノ川に捨てられた。

のちに、フィレンツェでは共和制のシンボルとしてミケランジェロの代表作、ダビデ像が造られる(1504年)が、1512年にはハプスブルク家の軍事的支援を受けたメディチ家がフィレンツェに復帰することになる。こうした社会の混乱でフィレンツェ社会の活力は失われ、ルネサンスは終息に向かっていった。










最終更新日  2019.02.06 19:10:15
コメント(0) | コメントを書く

PR

ランキング市場

ニューストピックス

プロフィール


rorita8851


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.