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人生朝露

人生朝露

チャップリンと荘子。

いろいろ大物を仕入れていますが、チャールズ・ダーウィンではなく、
Charles Chaplin (1889~1977)
チャールズ・チャップリンで。

チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin 1889~1987)。もう、いわずと知れた喜劇王ですが、日本では、むしろ社会派の作品に対しての評価が高い方です。いや、もう説明する必要は・・

参照:Wikipedia チャールズ・チャップリン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3

モダン・タイムス。
というわけで、『モダン・タイムス(Modern Times)』(1936)と、荘子(Zhuangzi)の関係について・・・いや、おかしいと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、チャップリンと中国古典の関係は、実は2度目なのですよ。

『子貢南遊於楚、反於晋、過漢陰、見一丈人方将為圃畦、鑿隧而入井、抱甕而出灌、滑滑然用力甚多而見功寡。子貢曰「有械於此、一日浸百畦、用力甚寡而見功多、夫子不欲乎?」為圃者仰而視之曰「奈何?」曰「鑿木為機、後重前軽、挈水若抽、數如失湯、其名為棉。為圃者忿然作色而笑曰「吾聞之吾師、『有機械者必有機事、有機事者必有機心。機心存於胸中、則純白不備、純白不備、則神生不定。神生不定者、道之所不載也。』吾非不知、羞而不為也。」子貢瞞然慚、俯而不對。』(『荘子』天地篇 第十二)
→子貢が南の楚に遊びに行き、晋に帰る途中、漢水の南を通った。見ると、一人の老人が畑仕事をしている。地下道にわざわざ入っていって、甕を担いで上がってきては、畑に水を注いでいる。大変な重労働のわりに、その効果は少ない。子貢は「機械のからくりを知らないのですか?一日で百畦の畑にも水をあげられますよ。小さな力で効果は大きいのです。あなたも試してみませんか?」お百姓は仰ぎ見て「どうするのかね?」子貢「木をくりぬいて、からくりを作るんです。後ろは重く、前は軽く。小さな力で溢れるほどに多くの水を汲み上げられるのです。其の名を「はねつるべ」といいます。」お百姓は、むっとしたあとに、笑って答えた。「私は先生に言われたことがある。『機械がある者には、機械のための仕事ができてしまう。機械のための仕事ができると、機械の働きに捕らわれる心ができてしまう。機械の働きに捕らわれる心ができると、純白の心が失われ、純白の心が失われると、心は安らぎを失ってしまう。心が安定しなくなると、人の道を踏み外してしまう。』私は機械の便利さを知らないのではない。機械に頼って生きようとすることが恥ずかしくて、そうしないだけだ。」子貢は、自らのおせっかいを恥じて、返す言葉を失った。

おそらく、ここは、チャップリンが何らかの形で『荘子』にインスパイアされたものだと思われます。機械によって、心が失われていく・・全く同じ主題ですからね。

例えば、中盤にチャップリンが目隠しでスケートをしているシーンがあります。

参照:Charlie Chaplin - Modern times part 6/9
http://www.youtube.com/watch?v=iMLFxRRwmkE&feature=related

本人は気づいていませんが、吹き抜けになっていて、一歩間違えば確実に死んでしまうのに、チャップリンは目隠しをしているので、平気でスレスレのところを滑っています・・これは、「無用の用」だと思われます。

Zhuangzi
『夫地非不廣且大也、人之所用容足耳、然則廁足而□塾之、致黄泉、人尚有用乎、惠子曰、無用、荘子曰、然則無用之為用也、亦明矣。』(「荘子」 外物篇二十六)
→「この大地はもとより広大だけども、人間がその大地を進む時に必要なのは、地に足が着いている部分だけでしょう。もし、仮に、あなたが歩く足の形に合わせて大地を残しておき、残りの全てを黄泉の国まで掘り下げてしまうとして、あなたは、そんな「底なしの大地」を役に立つと言えるのですか?」恵子「役には立たないでしょう」荘子「役に立つとか立たないとか、という視点は、そうやって考えれば答えは明白なのです。」

ま・さ・か、と思われるかも知れませんが、私は確信しているのです。

殺人狂時代。
同じくチャップリンの代表作『殺人狂時代 (Monsieur Verdoux)』(1947)での後半のセリフに、荘子のチャップリンに与えた影響を垣間見るのです。

殺人鬼となっていた主人公は、その計画が破綻したあとに、こう呟きます。

『家族を失ってから・・私は夢から覚めたらしい・・・それから後は、混乱と悪夢の連続だった。私は夢の中の世界に生きていた。恐ろしい世界だ。今、目が覚めた。あの世界がなかったようだ。』(『殺人狂時代』より)

Zhuangzi
『昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。』(『荘子』 斉物論篇)
→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。

・・・ここは夢と現実のパラドックス、胡蝶の夢。

死刑の寸前に看守が、『あいつは「悪なしに善はない」「悪は太陽の影」などと言っている』というセリフ。

それぞれ、『已にして知を為す者は殆きのみ。善を為すも名に近づくことなく、悪を為すも刑に近づくことなかれ。督に縁りて以て経と為さば・・』(養生主篇)『影を畏れ迹を悪む』(漁夫篇)あたりかと。こういう相対的なものの考え方は、老荘の得意分野。

シンボル。
キリスト教圏で、そう多いものではないです。

『犯罪は割りに合わないな。何事も成功するには、組織が必要です。』(同じく『殺人狂時代』より)

Zhuangzi
跖曰「何適而無有道邪。夫妄意室中之蔵、聖也。入先、勇也。出後、義也。知可否、知也、分均、仁也。五者不備而能成大盜者、天下未之有也。」(『荘子』雜篇 盜跖篇)
→『泥棒に道があるかって?そりゃ、どこに行くにも道はあるさ。部屋に何が置かれているかを推理できるのが聖。押し入るときに先頭に立てるのが勇。出るときにしんがりをつとめるのが義。うまくいくための作戦を立てるのが知。分け前をきっちり与えるのが仁だ。この五つの徳がなけりゃ、天下の大泥棒になれるわけはねえよ。』

そして、

殺人狂時代。
"One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify."
「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」(同じく『殺人狂時代』より)。

チャップリンの映画の中でも、非常に有名な名台詞ですが・・これは、

墨子。
『一人を殺せばこれを不義と謂い、必ず一死一罪あり。もしこの説を以って往かば、十人を殺さば不義を十重し、必ず十死罪あり。百人を殺さば不義を百重し、必ず百死罪あるべし。かくのごときは天下の君子みな知りてこれを非とし、これを不義と謂う。今、大いに不義を為して国を攻むるに至りては、則ち非とするを知らず、従ってこれを誉めこれを義と謂う。情(まこと)にその不義を知らざるなり。』(『墨子』非攻篇)
→人を一人殺した者がいたとするなら、これを不正義といい必ず、死刑になる。この論理をおしすすめると、十人を殺した者は十回の死刑に相当し、百人を殺せば百回の死刑に相当する。このような道理は、天下の君子たるものは皆知っていて、殺人を不正義であると発言する。しかし、多くの人間を死に至らしめる他国への侵略行為を見ると天下の君子は皆これを否定することもしらずに、正義などとのたまう。正義の何たるかを知らないものだ。

今から2400年ほど前の『墨子(Mozi)』に同じ意味のものがあります。侵略戦争を否定し、戦国時代に命がけで戦争を止めようとした、すごい人です。『荘子』の雑篇でも、墨家を批判しつつも、最終的には墨子を賞賛していますし、考えが似ているんですよね。

参照:Wikipedia 墨子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90

参照:当ブログ 2006.12.24. 西洋の学は古より墨子に備われり。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200612240000/

・・・3年前に「チャップリン」と「墨子」の関係を書いたんですが、もはや、偶然の一致とは思えないんですよ。チャップリンは知っていたんではないでしょうか?

荘子の「機心」と『モダン・タイムス』。
墨子の「非攻」と『殺人狂時代』。
テーマが完全に一致しています。

もともと、親日家で、使用人は日本人だらけだったりしたし、日本にもよく訪れていて、5・15事件にも巻き込まれそうになったチャップリンですが、古きよき日本を本当に愛してくれた人ですよね。(後にビルだらけになった日本を嘆いていましたが。)チャップリンのアジアの文化に対する理解というのは、
チャップリンとガンディー。
並外れていますよね。作品にはあまり見えなくとも、セリフは、やたらと東洋的なんですよ。彼が東洋の古典を読んでいると考えてもいいんじゃないんでしょうか?誰も言わないんですが、そうなんじゃないんですか?

日本人が古くから読んでいる書物をいつの間にか誰も読まなくなって、西洋人の言葉の中に、「古き日本」を感じるようなアホな現象が起きてはいませんかね?

ジョブズ。
AppleのCEOスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)が言っていましたね。

犬とチャップリン。
“Stay hungry, stay foolish.”

参照:スティーブ・ジョブズと禅と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5010

スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5077

ま、次回に続きます。


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