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人生朝露

人生朝露

芥川龍之介と荘子。

悪かったわね!
荘子です。

小泉八雲。
ちょっと前に、小泉八雲について書いたんですが、

参照:当ブログ 小泉八雲と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5046

この、ラフカディオ・ハーンの荘子への興味が伺える『安芸之介の夢』という作品があります。これについての感想で興味深いものがあります。

参照:安芸之介の夢(『怪談』より)
http://blog.goo.ne.jp/manda_ginji/e/beff4526f8b9c1c34102fcb85cb9a2df

≪或自警団員の言葉
さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放っている。微風もそろそろ通い出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸いまだポケットにはチョコレエトの棒も残っている。
 聴き給え、高い木木の梢に何か寝鳥の騒いでいるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云うことを知らないであろう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失った為にあらゆる苦痛を味わっている。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬ為にも少からぬ不自由を忍んでいる。人間と云う二足の獣は何と云う情けない動物であろう。我我は文明を失ったが最後、それこそ風前の灯火のように覚束ない命を守らなければならぬ。見給え。鳥はもう静かに寐入っている。羽根蒲団や枕を知らぬ鳥は!
 鳥はもう静かに寝入っている。夢も我我より安らかであろう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。と云う意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日の餓えに苦しみ乍(なが)ら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云ったそうである。蝶――と云えばあの蟻を見給え。もし幸福と云うことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であろう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得ている。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じように楽しい希望を持ち得るであろうか? 僕は未だに覚えている。月明りの仄(ほの)めいた洛陽の廃都に、李太白の詩の一行さえ知らぬ無数の蟻の群を憐んだことを!
 しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐まなければならぬ。況(いわん)や殺戮を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
 我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?(芥川龍之介『侏儒の言葉』より)≫

これは、1923年(大正12年)の関東大震災についての記述でもあります。その直後くらいに書かれたものでしょう。「夢」「蝶」「蟻」というのは、『安芸之介の夢』のモチーフです。

というわけで、次なる荘子読み。
芥川龍之介。
芥川龍之介(1892~1927)です。

参照:Wikipedia 芥川龍之介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B

芥川龍之介は、関東大震災の2年前、1921年(大正10)に毎日新聞の特派員として中国を訪れていまして、帰国後の『侏儒の言葉』には、芥川の老荘思想の影響がみられます

同じ『侏儒の言葉』には、
≪幻滅した芸術家
 或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣(わけ)ではない。≫

ともありまして、途中に『荘子』の逍遥遊篇の理想郷「無何有の郷(むかうのきょう)」の記述もあります。

≪百足(むかで) ちっとは足でも歩いて見ろ。
  蝶  ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。(同上)≫
なんていうのも、『荘子』の秋水篇からですね。明らかに老荘思想を意識した文章になっています。

彼の作品には、神仙思想や道教の説話を題材にした作品があります。訪中前に書かれたものでは『杜子春(1920)』が有名ですが、他にも『聊齋志異』をリメイクした『酒虫(1980)』、訪中後としては『仙人(1922)』などもあります。前掲の小泉八雲と蝶の話も、「胡蝶の夢」や「一炊の夢」に似たお話を書く八雲の姿勢に共感して、李白をあてています。

芭蕉。
松尾芭蕉が荘子の「胡蝶の夢」から「栩々斎(くくさい)」と名乗ったように、芥川の『歯車』に登場するペンネーム「寿陵余子」は、荘子からです。

しかし、ですよ。

-----(以下引用)------------------------
 僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。(それは或独逸人の集めた精神病者の画集だった)僕はいつか憂鬱の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂のようにいろいろの本を開いて行った。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠していた。どの本も?――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリイ」を手にとった時さえ、畢竟(ひっきょう)僕自身も中産階級のムッシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。……
 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。それから「宗教」と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢(きょうまん)、官能的欲望」と云う言葉を並べていた。僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。が、伝統的精神もやはり近代的精神のようにやはり僕を不幸にするのは愈(いよいよ)僕にはたまらなかった。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子(じゅりょうよし)」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲(かんたん)の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐(だこうほふく)して帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった。今日(こんにち)の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。しかしまだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。しかもその騎士は兜(かぶと)の下に僕の敵の一人に近いしかめ面を半ば露(あらわ)していた。僕は又「韓非子」の中の屠竜(とりゅう)の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。
 僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた。それは又僕の持っている硯(すずり)の銘にも違いなかった。この硯を僕に贈ったのは或若い事業家だった。彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまった。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらいこの地球の小さいかと云うことを、――従ってどのくらい僕自身の小さいかと云うことを考えようとした。しかし昼間は晴れていた空もいつかもうすっかり曇っていた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向うにある或カッフェへ避難することにした。(『歯車』より)
-------------------(引用終わり)------------

・・・・感覚はわかるんですよ。芥川は。

水の象徴である「龍」を殺す西洋の文明と、「龍」と崇める東洋の文明の差も象徴的で昔から好きなんですが、あろうことか、出典を間違っています。「寿陵余子」も、「屠竜の技」も『韓非子』ではなく、『荘子』です。確かに、寓話の趣旨がでカブるものもあるし、『韓非子』も老子の引用をするので、わからなくもないんですが、どうも、芥川は、ちょっとね、というものがあります。

参照:当ブログ 「火の鳥 復活編」と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5019

Zhuangzi
『且子獨不聞壽陵餘子之學行於邯鄲與?未得國能、又失其故行矣、直匍匐而歸耳。今子不去,將忘子之故、失子之業。』(『荘子』秋水 第十七)
→あなたは、寿陵の若者が邯鄲の都に歩き方を学びに行った話を聞いたことがないかね?その若者ははやりの歩き方を学ぶことも半端なまま、本来の歩き方すら忘れて、這いずりながら故郷の寿陵に帰ったそうだよ。

Zhuangzi
朱泙漫學屠龍於支離益、單千金之家、三年技成、而無所用其巧。聖人以必不必,故無兵、衆人以不必必之、故多兵。順於兵、故行有求。兵、持之則亡。小夫之知、不離苞苴竿牘、敝精神乎蹇淺、而欲兼濟道物、太一形虚。若是者、迷惑於宇宙、形累不知太初。彼至人者、歸精神乎無始、而甘冥乎無何有之郷。水流乎無形、發泄乎太清。悲哉乎。汝為知在毫毛、而不知大寧。(『荘子』列禦寇 第三十二)
→朱泙漫は支離益に龍を屠ふる技を学び、千金の財と三年の月日を費やしてその技を習得したが、結局、使うことはなかった。死を恐れない聖人は窮地においても、窮地としないから内に敵意がなく、死を恐れる世俗の人間は、窮地でなくても窮地にしてしまうから敵意ばかりになる。その敵意をむき出しにして、外に向うのだから、己を滅ぼすのだ。小さな知識に偏る者は、貢物や書面のやりとりから離れられず、精神を浅はかなことで疲弊させている。しかも、道と物の両方を抱えながら太一形虚の境地まで達しようとしている。このような者は、無限に広がる宇宙の中で惑うばかりで、始まりを知るには至るまい。かの至人と呼ばれる人は、精神を無始に帰し、無可有の郷に遊ばせる。形の無い水流のようであり、限りない清らかさを湧き出だしているかのようでもある。悲しいかな、あなたは毛の先のような知にとらわれて、大いなる安寧を知りえない。

『荘子』という書物の恐るべきところは、紀元前の書物でありながら、「精神」だの「宇宙」だのといった単語が、平然と載っているところです。しかも、あまり今の感覚と矛盾しないんですよね。

参照:当ブログ 荘子とビートルズ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5034

ジョン・レノンも、ラフカディオ・ハーンと同じアイルランド系ですし、明らかに当時の西洋の都会の喧騒から逃げたがって荘子を読んでいる風が見えますが、これって、イギリスに留学をした漱石もそうなんですよね。

参照:当ブログ 荘子、古今東西。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038

・・・なんか、芥川龍之介は、荘子の読み方が違うんです。というか、幸田露伴とか、中島敦とかの例外を除くと、荘子をちゃんと読んでくれている日本の作家がやたらと減るんですよね。

それに、ちょうど100年くらい前から、日本の作家って、バタバタ自殺してません?

-----(以下引用)------------------------
平凡な日常いや…アバター観賞後、米でうつ症状多数

 【ワシントン=勝田敏彦】映画「アバター」を見た後に平凡な日常に戻って落ち込んでいる人々がいる、との報道やインターネットへの投稿が米国で相次いでいる。「アバター観賞後うつ」とでも呼ぶべき症状で、ネットには「患者」からの声が多数書き込まれている。
 この現象は、3D(3次元)で描かれた美しい神秘の惑星パンドラの風景や、自然と調和した住民の平和な生活に魅せられた人が、現実の生活との差に悩むことで起きているようだ。
 ネット上にある映画のファンの英語のページに「パンドラの夢によるうつから脱する方法」というコーナーができ、人々の悩みが書き込まれている。
 「映画から日常に戻り、本当に落ち込んだ。もう1回見て、絶望感から立ち直った」「映画を見てから、遊ぼうという気がなくなった」「パンドラのような所を探そうとしたが、見つからなかった」
 米CNN電子版は「この映画は、仮想的な世界を作る技術としては最高。逆に、映画に出てくるユートピアと全く違う現実が一層不完全に見えてしまう」という精神医学の専門家の分析を紹介している。
 この現象は日本でも話題になっており、ネットには「日本はアニメ・ゲーム文化が根付いていて、そこまでの人はいないのでは」といった見方がある。一方で「映画の宣伝ではないか」という意見もでている。
-------------------(引用終わり)------------

参照: 平凡な日常いや…アバター観賞後、米でうつ症状多数 朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0126/TKY201001260294.html

参照:当ブログ 荘子の養生と鬱。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5030

≪地上楽園の光景は屡詩歌にもうたわれている。が、わたしはまだ残念ながら、そう云う詩人の地上楽園に住みたいと思った覚えはない。基督教徒の地上楽園は畢竟(ひっきょう)退屈なるパノラマである。黄老の学者の地上楽園もつまりは索漠とした支那料理屋に過ぎない。況んや近代のユウトピアなどは――ウイルヤム・ジェエムスの戦慄したことは何びとの記憶にも残っているであろう。(中略)これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の瞑想の中にこう云う光景を夢みなかった。夢みなかったのは別に不思議ではない。こう云う光景は夢みるにさえ、余りに真実の幸福に溢れすぎているからである。(『侏儒の言葉』「地上楽園」より)≫

参照:青空文庫 『侏儒の言葉』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/158_15132.html

・・・オチもつかないまま、次回へ。

今日はこの辺で。


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