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人生朝露

人生朝露

荘子とゴースト。

もう何回目でしょうか。
ところがどっこい。
荘子です。

Inception(2010)。
『インセプション(Inception)』と荘子の関係について。渡辺謙が、夢の世界死ぬことにより、虚無に落ちて現実でも死んでしまうかも知れない、という設定だったんですけど、これ、『マトリックス(MATRIX)』でもそうです。

参照Youtube How to die (matrix)
http://www.youtube.com/watch?v=sp0qzxO2c08&feature=related

マトリックスの夢の世界にいた人が、夢の世界で殺される、もしくは、現実世界との接点を人為的に切断された途端に死んでしまう、という設定だったんですが、荘子で言うと『渾沌』に近いと思います。

Zhuangzi
『南海之帝為燻、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。燻與忽時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善。燻與忽謀報渾沌之徳。曰「人皆有七穿以視聴食息、此獨無有、嘗試鑿之。」日鑿一穿、七日而渾沌死。(「荘子」 應帝王 第七)』
→『南海にシュクという帝、北海にコツという帝、中央に渾沌(コントン)という帝がいた。
シュクとコツとは、渾沌(コントン)の領土で出会い、渾沌は南北からきた彼らを温かく歓待した。そのもてなしのお礼をしようとシュクとコツは相談した。「人間の顔にはだれにも(目に二つ、耳と鼻にも二つ、口に一つ)七つの穴があって、それで物を見たり、音を聞いたり、食べ物を食べたり、呼吸をしたりしているが、この渾沌だけにはそれがない。お返しに渾沌にその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで二人は一日に一つずつ穴を開けてやった。しかし、七日経つと渾沌は死んでしまった。』

「渾沌の死」の寓話において、七つの穴が象徴するのは「五感」で、人間の感覚と精神との関係、一面においては、肉体と精神との関係を表現しているものです。人間の作為によって、簡単に死んでしまう何か。意識の底の方から出てきたイメージなので、うかつに触ると大変ですが、渾沌というのは、自分の感覚だと、ゴーストとか、ファントムといったものかなと。人間と機械を分かついのちそのものというか、『攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)』に登場する「ゴースト」みたいなものです。

参照:立花隆×押井守 NHK「プレミアム10」内対談 : INNOCENCEに見る近未来
http://sci.gr.jp/project/gis/premium10/

>特に欧米の人には説明しにくい。いわゆるそれは欧米流の精神と肉体の二元論みたいなところで、例えばカントならカントの人間機械論みたいな、機械がうつろな空洞の中に宿ったゴーストだという。そういうけっこう寒々しいというか、けっこう虚無的な二元論みたいな形でしか了解されないと。
>実は僕が考えているゴーストというのはたぶんもっと違うものだろうと。例えば1番そのときに答えた人言わなきゃいけないのは、ゴーストというのは、もしかしたら犬にもあるかもしれないということです。僕は犬にあることは確信している。猫にもきっとある、鳥にも魚にも植物にもあるかもしれない。それは決して、その欧米流のいわゆるスピリットではない。神さまが与えたものでもない。あの人たちはそういう考え方しないわけだから。
>そういうふうに考えていったときに、初めてゴーストみたいなものを、人間機械みたいな二元論ではなく、日本的な、八百万の神みたいな、領域の中に確保できるんじゃないかと。植物まで風呂敷広げていいんだけれども。とりあえず動物で考えれば、動物と人間の共通項ということで、生物学的な部分や、野性的な部分であるとかじゃなくて、なにか文化としてあるんじゃないかと。僕はそれをゴーストというふうに、とりあえず考えようと思っているんですね。たぶん犬というのは生まれてから1度も人間に出会うことがなければ、ゴーストは持たない。犬と人間が触れ合うことで、ある意味では相互にゴースト的なものが生まれる。自分でない他者と結びつくことによってというかな。魚にゴーストを感じられないというのは、魚と友だちにならないからなんですよ。イルカだったらありうるかもしれない。そういう意味で言えばイルカやクジラに思い入れする欧米人というのは半分正しいかも知れない。いずれにせよ僕が考えている人間性の本質みたいなもの、ゴーストみたいなものがあるとすれば、それはおそらくスタンド・アローンであるものじゃなくて、日常、家庭で獲得できるものであるというように思う。一種のネットワークなんだというふうに。僕はそういうふうに思っているんですけどね。(INNOCENCEに見る近未来)

いいもの見つけた!

しかし、押井守が使っている言葉の半分以上は紀元前の荘子なんですよ・・・。恐ろしい。この対談の中身は、小泉八雲とか、ユングの話とかにもよく似ています。小泉八雲の言っている「ゴースト」はユングのフィレモンに近いかなと思うんですけど。

参照:小泉八雲と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5046

荘子と進化論 その44。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201003300000/


この対談にもでていますが、
脳のなかの幽霊。
『脳のなかの幽霊(VS ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー)』とかも荘子の感覚に似ています。腕を失った人に無くなったはずの腕の感覚があるとか、そういう話です。人間が突詰めて物を考えると、だいたいこの辺で行き詰る。理屈だけで科学を語るのも同様。その先のあたりに老子や荘子がいる、というものですかね。

『自分の人生が、希望も成功の喜びも大望も何もがもが、単に脳のニューロンの活動から生じていると言われるのは、心が乱れることであるらしい。しかしそれは、誇りを傷つけるところか、人間を高めるものだと私は思う。科学は----宇宙論や進化論、そしてとりわけ脳科学は----私たちに、人間は宇宙で特権的な地位を占めてなどいない、「世界を見つめる非物質的な魂をもっている」という観念は幻想にすぎないと告げている(これは東洋の神秘的な伝統であるヒンドゥー教や禅宗が、はるか昔から強調してきたことである)。自分は観察者などではなく、実は永遠に盛衰をくり返す宇宙の事象の一部であるといったん悟れば、大きく解放される。』(『脳のなかの幽霊』より。)

これが分かるってのが、インド人。さすがだわ。

この「脳のなかの幽霊」と「マトリックス」の元ネタ、
『タオ自然学』 F・カプラ著 工作舎
『タオ自然学』を読むと、やっぱり荘子だわと、思えるんです。

参照:荘子と進化論 その52。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201005230000/

Zhuangzi
『仲尼曰「惡!可不察與!夫哀莫大於心死、而人死亦次之。日出東方而入於西極、萬物莫不比方。有目有趾者、待是而後成功、待晝而作。是出則存、是入則亡。萬物亦然、有待也而死、有待也而生。吾一受其成形、而不化以待盡、效物而動、日夜無隙、而不知其所終,薫然其成形、知命不能規乎其前、丘以是日徂。吾終身與汝交一臂而失之、可不哀與。女殆著乎吾所以著也。彼已盡矣、而女求之以為有、是求馬於唐肆也。吾服女也甚忘、女服吾也亦甚忘。雖然、女奚患焉。雖忘乎故吾、吾有不忘者存。』(『荘子』 田子方 第二十一)
→仲尼はこう言った「ああ、察してもらいたいものだ。この世で心の死ほど哀しいものはなく、肉体の死はそれに次ぐものだ。太陽は東から出て西に沈む。万物は、その流れに逆らうことはできない。目があり足のある者は、太陽の動きに合わせて行動し、日の出と共に動き出し、日が沈むとすることがなくなる。万物も人間と変わりはなく、造化の大いなる働きによって、時が来れば生まれ、時が来れば死ぬ。我々が偶然にも人間の肉体を得たのだから、与えられた肉体に手を加えず、寿命が尽きるのを待つのみだよ。万物の流れに順応していれば、昼と夜との連なりのなかで、一生の終わりも気付かないほどだろう。生死の運命を知ることなどできないのだから、私は自然の流れに任せて日々移りゆくのみだよ。私に心酔していつもそばにいて従ってくれるお前が、私と一生肘を組んだ生活をしたとしたら、お互いにとって失うものの方が多いだろう。悲しむべきことだな。お前は外から見える私の姿をそっくりそのまま真似ようとしているが、移りゆく私の一部に過ぎないのだ。お前は過去の私という幻を追っているのだ。市場が終わったあとに馬を買い求めにやってくるようなものさ。変化し続ける形を、私自身も忘れているものだ。お前も、私の教えなど忘れいくのだ。しかし、何も患うことはないよ。お前が過去の私を忘れたとしても、私を忘れていないものの中で私は生き続ける。」

・・・自分という存在は他者に全て理解させることができないだけでなく、真意というものは一面でしか表されていない。ましてや孔子の至った境地についてなど、孔子自身しか表現しようがない。というものなんですが、途中で人間の意識なるものは、絶えず変化していて、簡単に言うと、毎日更新され、上書き保存されて、ほとんどが消去されているのだけども、「本当の私」だけは忘れ去られない。ここで「真我」についての表現が入っているんですよ。

『千年女優』(2002)
「変わりゆく私」と「変わらない私」というと、夢と現実の狭間を綺麗な形で描いた今敏監督の『千年女優』は秀作です(ただし、ラストの5分間くらいの蛇足が残念)。本当に惜しい人を亡くしたと思います。

参照:千年女優 特報
http://www.youtube.com/watch?v=1Dm4R9kT4XQ&feature=related

本質は同じものなのに、アングルの違いによって、哲学のようであり、自然科学のようであり、生理学のようであり、詩のようであり、宗教書のようである---ただし、それらのほとんどが、脳科学とか心理学へと収斂されていく、というのが、私の荘子の読み方です。どこまで行っても人間、どこまで行っても心。

うん、脈絡がないな。
あとで推敲します。次回は我が郷土について。

今日はこの辺で。



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