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人生朝露

荘子と『水槽の脳』。

平成23年が明けました。
初夢で蝶になった人がいたら・・・・きっと、変人ね♪

悪かったわね!
さて、荘子です。

『Inception』(2010)。
『インセプション』の着想の元にボルヘスの『円環の廃墟』があり、その向こう側に荘子がいるということの続きを。

参照:荘子と進化論 その69。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201012240000/

もう一度、↑を読んでいただいたうえで、話を進めます。
まぁ、これでも分かりにくいので、荘子の話をかいつまんでいくと、

Zhuangzi
『「天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。其視下也亦若是、則已矣。其視下也亦若是、則已矣。」』(逍遥遊 第一)
→空が青々としているのは、本当の空の色だろうか?それとも遠く離れているからそう見えるだけではないだろうか?
⇒ここでは、視覚について。

『「偃,不亦善乎而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?汝聞人籟而未聞地籟,汝聞地籟而未聞天籟夫!」』
→「偃よ。お前には隠せないな」ふと我に返った彼は答えた。「今、私は無になったのだよ。いやいや、お前は人籟(じんらい)が聴こえても、地籟(ちらい)は聴こえないだろう。地籟が聴こえても天籟(てんらい)は聴こえないのだな。」(斉物論 第二)
⇒ここでは、(無心でいるときの)聴覚について。

『仲尼曰「一若志,無聽之以耳而聽之以心,無聽之以心而聽之以氣。聽止於耳、心止於符。氣也者、?而待物者也。唯道集?。?者、心齋也。』(人間世 第四)
→仲尼はこういった。「志を一つにせよ。声を聴くのに耳ではなく心をもってせよ。そして、心ではなく氣をもってせよ。耳は聴くに留まり、心は知るに留まる。氣はすべてのものを受け入れることができる。雑念がないがゆえにすべての本質は虚にのみ集まる。無心でいるがゆえに、心斎といえるのだ。」
⇒ここは、感覚器官である耳と、その知覚の受容器官である心のはたらきについて。

『夫言非吹也。言者有言,其所言者特未定也。果有言邪?其未嘗有言邪?其以為異於?音,亦有辨乎,其無辨乎?』(斉物論 第二)
→言葉というものは、口から吹き出す音というだけではない。言葉というのもには意味がある。しかし、言葉が特定されていないとしたら、その発した言葉は「言った」と言えるのか?それとも「何も言っていない」ことになるのか?意味の通じない言葉を発したとして雛鳥のさえずりとは違う、と言ったところで意味があるのか?
⇒ここでは、認識された音声による知覚と知識の共有について。

荘子の内篇というのは、人間の知覚そのものに対する深い観察があります。

Zhuangzi
『惠子謂莊子曰「人故無情乎?」莊子曰「然。」惠子曰「人而無情、何以謂之人?」莊子曰「道與之貌、天與之形、悪得不謂之人?」』(徳充符 第五)
→恵子は荘子に質問した「聖人と言われる人に感情がないというのは本当ですか?」荘子曰く「そうです。」恵子は質問した「感情がないのに、聖人は人と言えるのでしょうか?」荘子曰く「道(tao)は人に姿を与え、天は私に肉体を与えています、それだけでも、人間と呼べないのでしょうか?」
⇒ここは、人が人を認識するということについて。

『喜怒哀樂、慮歎變?、姚佚?態。樂出?、蒸成菌。日夜相代乎前、而莫知其所萌。已乎已乎!旦暮得此,其所由以生乎!非彼無我,非我無所取。是亦近矣。』(斉物論 第二)
→喜怒哀楽や思慮、嘆き、恋、恐れ、うきうきしたり、ゆったりしたり、啓いたり、形になったり、音楽が空っぽの笛から奏でられたり、蒸し蒸しした気からキノコが生えたり。日夜繰り返す感情の変化は一体どこからやってくるのだろう。いや、止めだ、止めだ。そんなことを考えるのは。この変化はなにかきっかけがあるようだが、相手がいるから私という存在があり、私を抜き取ってしまうと何もなくなる。これが道に一番近いのだ。
⇒ここでは、人の感情の始まりについて。

さらに、
『若有真宰,而特不得其?。可形已信、而不見其形、有情而無形。百骸、九竅、六藏,?而存焉,吾誰與為親?』(斉物論 第二)
→主宰者がいるようだが、はたらきとしてあらわれるだけだ。形として見えない。情があるようで形はない。人間は百の骨、九つの穴、六つの臓器を備えているが、そのどれを偏愛することがあるだろうか?
⇒これは、もはや、「あれ」ですよね。

『思』のひよめき。
ちなみに「思」という漢字の上の田の部分は、「田」ではなく、赤ちゃんの頭のてっぺんのペコペコ動く部分、「泉門」「ひよめき」から象られています。昔の中国人は、頭と心臓、これで何かが起きていると考えたんでしょうね。

で、で、
Zhuangzi
「既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也?我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也?而果非也邪?其或是也,其或非也邪?其?是也,其?非也邪?我與若不能相知也,則人固受其甚闇。吾誰使正之?使同乎若者正之,既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之,既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之,既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之,既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人?不能相知也,而待彼也邪?」(『荘子』斉物論 第二)
→私とあなたが議論するとして、あなたが勝ったならば、私が「非」であなたが「是」なのか?私が勝ったならば、私が「是」であなたが「非」なのか?どこが「是」で、どこが「非」なのか?お互いに正しいとか、お互いに間違っているということは無いのか?私はあなたではないので、私はあなたの全てを理解することはできない。つまり、お互いがお互いを理解できない、真っ暗闇の部分がある。それなのに、誰に、どちらの主張が正しいと判断させるのだ?

となった後に、ぼんやりとした影・モウリョウの話が入り、そして、

Zhuangzi
→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。
ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。自分は蝶だったのか、蝶が自分であることなんて・・自分と蝶には大きな違いがあるはずなのに・・これを物化という。

根源的な問いの先に「胡蝶の夢」があるわけです。

我々は言葉を駆使しているけども、その言葉によって、『あなたがいる「現在」は「夢」でないと証明できますか?』と投げかけているんですよ。紀元前の人が問いかけているんです。

すなわち、
水槽の脳。
あなた、夢見ていませんか?ということです。

>ある科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないような特殊な成分の培養液で満たした水槽に入れる。脳の神経細胞を、電極を通して脳波を操作できる非常に高性能なコンピュータにつなぐ。意識は脳の活動によって生じるから、水槽の脳はコンピュータの操作で通常の人と同じような意識が生じよう。実は、現実に存在すると思っている世界は、このような水槽の中の脳が見ている幻覚ではなかろうか?

参照:Wikipedia 水槽の脳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%A7%BD%E3%81%AE%E8%84%B3

Are you a brain in a vat?
http://www.youtube.com/watch?v=ursdoT66JlU


沢庵宗彭 『夢』
・・・英語版のWikipediaには載っているんですが、プラトンの洞窟の比喩にも近いです(日本語版にはないですね)。デカルトもやっているけど、浅いのなんの。圧倒的なのはやっぱり仏教思想か荘子です。同じアナロジーでも、数多のフラグメントが頭の中でデフラグされる「夢」に置いた荘子は、ちょっとシャレになっていない。

参照:洞窟の比喩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AE%E6%AF%94%E5%96%A9

Brain in a vat Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Brain_in_a_vat
↑ここにもちゃんと胡蝶の夢が入ってますよ。

『Matrix』(1999)。

03 What is Real
http://www.youtube.com/watch?v=ON9yQpR0y30&feature=related

『インセプション』でも、『アバター』でも、『マトリックス』でも、同じなんですよ。
古くて新しい問題なんです。

「?且彼方??泉而登大皇,無南無北,?然四解,淪於不測;無東無西,始於玄冥,反於大通。子乃規規然而求之以察,索之以辯,是直用管窺天,用錐指地也,不亦小乎。」(『荘子』秋水 第十七)
→荘子はすでに地泉を踏み越えて大空までも目指している。南でもなく北でもなく爽やかに世界と溶け込み、東でもなく、西でもない、真っ暗な世界の始まりから、大いなる自然の営みと共にあるのだ。ところがあなたは、ちまちまとした分析で彼を推し量ろうとし、つまらない理屈で彼を追いかけている。その様は、小さな穴から空を覗いたり、錐を刺し込んで地の深さを測るようなものだ。なんとちっぽけな了見だろう。

我々は、日々、朝三暮四を繰り返す、井の中の蛙なのですよ。

今日はこの辺で。


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