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人生朝露

人生朝露

曳尾塗中と籠の中の鳥。

今日はまず、『論語』から。
Confucius (551 BC ~ 479 BC)
『長沮桀溺藕而耕、孔子過之、使子路問津焉。長沮曰「夫執輿者為誰」子路曰「為孔丘」曰「是魯孔丘与、対曰是也、曰是知津矣、問於桀溺」。桀溺曰「子為誰」曰為仲由、曰「是魯孔丘之徒与」対曰、「然、曰滔滔者天下皆是也、而誰以易之、且而与其従辟人之士也、豈若従辟世哉」憂而不輟、子路行以告、夫子憮然曰「鳥獣不可与同群也、吾非斯人之徒与而誰与、天下有道、丘不与易也。」』(『論語』微子編)
→長沮と桀溺(けつでき)とが並んで耕していたところ、孔子の一行がそこを通り過ぎていった。子路が船着場を探すため長沮に話しかけたところ、長沮は「あの馬車の手綱をとっているのはどなたかね?』ときいてきた。子路は答えた『孔丘先生です』。長沮が『魯の孔丘かね?』と尋ねるので子路は『はい』と答えた。すると『孔丘ほどの物知りなら船着場くらいは知っているでしょうに』。次に子路が桀溺に尋ねてみると、桀溺は「あなたは誰かね?』ときいてくる。子路「私は仲由と申します」と答えた。「あなたは孔丘の弟子なのか?」。「そうです」。桀溺は「天下はまるで滔々と流れる大河のように留まることを知らない。選り好みをして人を使い捨てにするような人と天下を治めようとなさるくらいなら、いっそ世の隠者と共にいた方が良いのではないかね?」とつぶやき、再び耕し始めた。子路が孔子にこのことを伝えると、先生は残念そうにこうおっしゃった「鳥や獣とは人間は一緒に暮らせない、人間以外のだれと共に暮らしていくというのだろうか。天下に本当の道が行われているならば、何も私が改革者になったりはしなかったろうね。」

『論語』のこの部分は『荘子』を読む時の前提として必要なところでして、
Zhuangzi
『故至徳之世、其行填填、其視顛顛。当是時也、山無蹊隧、澤無舟梁。萬物群生、連属其郷。禽獣成群、草木遂長。是故禽獣可係羈而遊、烏鵲之巣可攀援而閲。夫至徳之世、同與禽獣居、族與萬物並、悪乎知君子小人哉。同乎無知、其徳不離。同乎無欲、是謂素樸。素樸而民性得矣。』(『荘子』馬蹄篇 第九)
→「ゆえに、至徳の世というのは、束縛もなく人の行いは穏やかで、人々の瞳は明るかった。かつての至徳の世では、山には道も拓かれず、川にも船は無かった。万物は群生して、棲み分けをする必要もなかった。動物たちは群れを成し、草木は伸びやかに成長した。ゆえに、動物を紐に繋いで共に遊ぶことが出来たし、木によじ登って、カササギの巣をのぞいてみることができた。その至徳の世においては、動物たちと同じ場所に住み、万物と並んで暮らしていた。そこに君子や小人なんているはずがない。人々はさもしい知識も持たず、徳が心から離れず、無欲でいた。これを「素樸(そぼく)」という。素樸だからこそこそ民はあるがままでられる。」

鳥獣を退け、人間社会に生きる孔子と、鳥獣を含めた万物と共に生きる荘子の対比として興味深いところです。

参照:当ブログ 孔子と荘子と司馬遷と。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5029

Zhuangzi
『莊子釣於濮水、楚王使大夫二人往先焉。曰「願以境?累矣」莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千?矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎?」二大夫曰「寧生而曳尾塗中。」莊子曰「往矣、吾將曳尾於塗中。」』(『荘子』秋水 第十七)
→荘子が濮水のほとりで釣りをしていたところ、楚王の二人の使者がやってきて「あなたに楚の国の政をお願いしたい」と言ってきた。荘子は釣竿を持って、釣り糸を見つめながらこう言った。「楚の国には神龜という亀がいるそうですね。死んでからすでに三千年も経っていて、楚王はこれを大事にして、廟堂に祀っていると聞きます。その亀の身にすれば、死んで骨を大事に祀られていることを望んだのでしょうか?それとも、泥の中で尻尾を振ってでも生きていくことを望んだでしょうか?」使者は「泥の中でも生きていたいと望んだでしょうな」と答えた。すると荘子はこう言った「お行きなさい。私も泥の中で生きていたい。」

・・・荘子という人は諸子百家の中でも抜群に賢い人なので、仕官の道はいくらでもあったでしょうが、この「曳尾塗中(えいびとちゅう)」の故事にもあるように彼は明確に政治の世界に入ることを拒否します。世俗との交わりを絶つ姿勢を示しているわけです。

もう一つ重要なのが、動物の比喩です。
Zhuangzi
『北海若曰「牛馬四足,是謂天。落馬首,穿牛鼻,是謂人。」故曰「無以人滅天,無以故滅命,無以得殉名。謹守而勿失,是謂反其真。」」』(『荘子』秋水 第十七)
→北海若はこういった。「牛馬に四本の足がある。これを天という。馬に手綱を付けたり、牛の鼻輪を通すために穴をあけることを人(人為)という。だから昔の人は言ったのだよ『人(人為)を以って天を滅ぼすな。故意に命を滅ぼすな。名利のために徳を失うな。』とね。この考えを慎み深く守ること、これが人間の本性に立ち戻るということだ。

『馬蹄可以踐霜雪、毛可以禦風寒、?草飲水、翹足而陸。此馬之真性也。雖有義臺、路寢、無所用之。及至伯樂曰「我善治馬。」燒之剔之、刻之?之、連之以羈?、編之以?棧、馬之死者十二三矣。飢之?之、馳之驟之、整之齊之、前有?飾之患、而後有鞭筴之威、而馬之死者已過半矣。』(『荘子』馬蹄 第九)
→馬には本来霜や雪をしのぐための蹄があり、冷気に備えるために毛が生えている。草を食み、水を飲み、大地の駆け上がる。これが馬の本性である。立派な厩を建ててやったところで、馬にとっては本来無用なものなのだ。ところが、馬を養う伯楽達は「私は馬を養う名人です」などとのたまう。蹄鉄と称して焼いた鉄を埋め込み、毛を剃り落とし、焼印をして、紐につなぎ、すのこの板に桶を据え置いて馬を並べて育てるようになってから、十中二、三頭の馬が死ぬようになった。馬の飢えや渇きを見殺しにして、競争や仕事に駆り立て、前からは縄で縛りつけ、後ろからは鞭で脅すようになってからは、馬の過半は死ぬようになった。

『莊子應其使曰「子見夫犧牛乎?衣以文?、食以芻叔、及其牽而入於太廟、雖欲為孤犢、其可得乎。』
「お前は生贄になる牛を見たことがあるか?綺麗な錦に飾られ、豆や草も上等なものを与えられてはいるが、いざ、生贄になるときになって『ああ、子牛の頃に戻りたい』と願っても、もう、どうにもならないのだ。」(『荘子』列禦寇 第三十二)

これとかは、分かりやすいですね。

参照:Wikipedia ドナドナ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%89%E3%83%8A

・・・人間の都合で駆り立てられ、使役されていく動物と同じように、人間が「社会」を形成するようになってから、人間自身ががせきたてられ、追い詰められていくということの隠喩があるわけです。ただ、動物に置き換えることだけで気づくものです。

こんなもん、
http://www.youtube.com/watch?v=CM4tAGl6G50
ですよ。

Zhuangzi
『澤雉十歩一啄、百歩一飲、不?畜乎樊中。神雖王、不善也。』(『荘子』養生主 第三)
→沢のキジは十歩に一度エサをついばみ、百歩に一度水を飲む。そんなキジでも籠の中に閉じ込められる事を望まない。人間で言えば王様のようにエサや水にありつけても、心がそれを善しとしないからだ。

『此以己養養鳥也,非以鳥養養鳥也。夫以鳥養養鳥者,宜栖之深林,遊之壇陸,浮之江湖,食之鰍?,隨行列而止,委蛇而處。』(『荘子』至楽 第十八)
→人の養生を鳥の養生に押し付けたとしても、それは鳥を養うことにはならない。鳥を養うならば、森林に住ませ、平らな丘に遊ばせ、ドジョウをえさとして、群れの中に入れてやり、のんびりさせてやるべきだ。

これは『徒然草』にも引用されています。
吉田兼好です。
『養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。 その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。』 (『徒然草』第百二十一段)

・・こういうこととか、
http://www.veoh.com/watch/v1585990kTakJ4JE
ですよ。

荘子が「泥中の亀でありたい」と呟くのも、誰のものでもない生を誰かの都合に縛られる「生なき秩序ある生き方」よりも、「生死ある秩序なき生き方」を選択するという態度と読めるんです。誰かに飼いならされて、しがらみの中に囚われることを断ち切る生き方。人工物に取り囲まれた「籠の中の鳥」ではない生き方。その一つとして、隠遁という思想が荘子という書物から育まれていったと感じるんです。

参照:当ブログ 世捨て人の系譜。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5063

The beatles - Free As A Bird (HD)
http://www.youtube.com/watch?v=glUFjjkYuAk

・・・で、こう感じる人にはきっかけというか、初期症状があるんです。

阮籍(210~263)。
阮籍の『詠懐詩』にすでに現れているものです。

夜中寐ぬる能わず
起き坐して鳴琴を弾ず
薄き帷に明月の鑑
清風は我が襟を吹く

孤鴻は外野に号び
朔鳥は北林に鳴く
徘徊して将た何をか見る
独り憂思して心を傷ましむ

眠れない夜 泉谷しげる
http://www.youtube.com/watch?v=rcyQj8jrfEw

The Beatles "I'm so tired"
http://www.youtube.com/watch?v=-Tu2eZpA4yo

参照:荘子の養生と鬱。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5030

ユングとタオと芭蕉の鬱。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5050

・・・眠れないんです。

今日はこの辺で。


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