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人生朝露

人生朝露

莫耶の剣の偶然、莫耶の剣の運命。

荘子です。
荘子の続き。

前回、ニーチェの、『ツァラトゥストラはかく語りき』と『荘子』がなんか似ているという話をしました。

参照:人間万事、ツァラトゥストラの偶然。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5090/

このキーワードに関して外せないのが、
九鬼周造(1888~1941)。
九鬼周造さんです。

参照:Wikipedia 九鬼周造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%91%A8%E9%80%A0

九鬼さんは、私とは違って正真正銘の水軍の名門、九鬼一族の末裔にあたり、岡倉天心とハイデガーの双方に大変ゆかりのある方でして、同時に、東洋思想と西洋思想の狭間で思索を展開した、非常に面白い方です。

参照:当ブログ ハイデガーと荘子 その4。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5023

1935年(昭和10)に刊行された『偶然性の問題』において、徹底的に「偶然」にこだわります。ニーチェでも、キルケゴールでも、ハイデガーでも重要な"Nichts(無)"があるんですが、この「無」に至る過程で、(特にハイデガーの場合には老荘思想の「無」なんで(笑))、東洋思想に非常に多くある「偶然」というものに着目したんだと思います。

『偶然は遭遇または邂逅として定義される。偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。偶数とは一と一とが遇って二となることを基礎とした数である。偶然の偶は偶座の偶、配偶の偶である。偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙の邂逅である。われわれは偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということが出来るであろう。 』(九鬼周造『偶然性の問題』)

偶然性と不可能性の近接関係 『偶然性の問題』より。
≪マイノングも次のやうに云っている「偶然の中に含まれている可能性が大きければ大きいほどではなく、小さければ小さいほど、偶然がますます妙だと云われるのは注意に値する。二人の同僚が役所の仲で出くわすのにも勿論何等の偶然性がないというわけではないが、特別の偶然と考えるのは役所の所在地から遠く離れた町で出くわした場合である。その場合の可能性は前の場合よりも遥かに小さい。」『易経』に、「噬(月+昔)肉遇毒」という場合、(月+昔)肉は乾かした古い肉であるから、腐敗して毒の蔵する可能性はかなりに大きい。肉を食って中毒したということには幾分の偶然性があるが大した偶然でもない。可能性が大きいからである。それに反して「噬乾〓得金矢」という場合、骨付きの乾いた肉の中に金の矢の根があるということは、狩の時に弓で獣を射たとすればもちろん不可能なことではないが、それが黄金の矢であったりしてみれば、甚だ可能性の小さいことである。その代わりに偶然性は甚だ大きい。嘗て自分は京都から東京へ向かう東海道線の汽車中、定刻より少し遅れて食堂車へ入った。僅かに一つだけ空席が残っていたからその席へ着いた。隣の男が声をかけるから見てみると、宮崎県に住んでいる義弟であった。その瞬間に自分は不思議さに打たれた。しかし、考えてみると、東京で岳父の一周忌の法要のある前日であった。また汽車は特急燕号であった。二人ともその日の汽車に乗ることも、また燕号に乗り込むこともかなり大きな可能性を有っている。偶然性はむしろ夕食時間が数回あるにも拘らず、二人とも計らず同じ何回目を選んでいることや、食堂が満員であったに拘らず、義弟の隣席だけ空いていることに存している。相当大きい可能性が含まれていることが分かってきたので、次第に偶然性も減少し、従ってさほど不思議とも思わなくなったのであった。≫(九鬼周造『偶然性の問題』第三章 隣接的偶然より)

・・・ここで、九鬼さんは太極図を使っていて、『易経』から引用していますね。

C.G.ユング
≪ただし私は読者にうけあってもいいが、この中国思想の記念碑(『易経』)に正しく近づく方法を見出すことは容易ではない。古代中国人の考え方は、我々の考え方とは全くかけ離れているからである。こういう書物の何たるかを理解するには、まずわれわれの持っているある種の西洋的先入観を捨ててかかる必要がある。中国人のように才能に恵まれた知的な民族が、われわれのいう科学を発展させなかったことは奇妙な事実である。ただし、われわれの近代科学は、因果性の原理に基づいてきたものであって、因果性というものは、従来公理のように動かしがたいも真理だと考えられてきた。しかし、今日ではわれわれの見方にも大きな変化が兆している。カントの『純粋理性批判』がなしとげられなかったことが、現代物理学によって完成されつつある。因果性の公理はその基礎を揺さぶられているのである。今日ではわれわれは、われわれが自然法則と呼んでいるものが単なる統計的真理に過ぎず、例外を認めなければならないということを知っている。自然法則の普遍な妥当性を証明するには、厳重な管理下におかれた実験設備を必要とするわけであるが、われわれは従来、この事実が何を意味するかということを、十分に考慮に入れてこなかったのである。もし事態を自然のままにまかせるとしたら、非常に違った情況がうまれてくるであろう。すべての過程には、部分的あるいは全体的に、偶然が介入するわけであるから、自然な情況の下では、一定の法則にまったく支配された出来事が起こるということは、ほとんど例外的なケースと言っていいのである。≫(C.G.ユング『現代と易経』(1948) 因果性といわゆる偶然性より)

≪易経を検討して知りえたところからいうと、中国人の精神は、事象の偶然的側面につよい関心を払っていたように思われる。この独特な精神にとっては、われわれが暗合(偶然の一致 coincidence)と呼ぶような事柄が主要な関心事であって、われわれが因果性として尊重するような事柄はほとんど注意をひいていない。偶然というもののもつ非常な重要性についてはたしかに語るべきところがある、という事実を、われわれは認めなければならない。偶然がもたらす災厄や危険と戦ってこれを制限するために、これまで計算できないほどの人間の努力が費やされてきたのである。偶然のもたらす実験的結果に比べると原因と結果についての理論的考察というものは、しばしば精彩を欠き、色あせたものにさえ見える。≫(同上)

Pakua。

・・・ユングも同じようなことを言っていますね。

参照:荘子のいるらしき場所。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5071

リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm1873~1930)。
このユングの文章は、ドイツ領青島で宣教師をやっていた中国の古典のヨーロッパへの伝播の功労者、リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm)の『易経“The book of change”』の英訳版に寄せられたものです。ユングは、ここから『易経』を通して、「共時性(Synchronicity)」へ至るわけですが、老荘思想も、同じように因果性というものを排しています。道元も因果については否定的です。ここはインドの思想と著しく異なるところです。ただし、理解していないわけではないんですよ。

≪西郷隆盛という一人の人間は江戸で生まれることも京都で生まれることも伊勢で生まれることも土佐で生まれることもできたはずでありますが、薩摩で生まれたということは西郷隆盛の運命だったのであります。私どもはアメリカ人でもフランス人でもエチオピア人でもインド人でも中国人でもその他のどこの国の者でもあり得たと考えられるのであります。我々が日本人であるということは我々の運命であります。 虫にも生まれず鳥にも生まれず獣にも生まれずに人間に生まれたということも我々の運命であります。人間に生まれるというサイコロの目がヒョッコリ出たのであります。日本人に生まれるというサイコロの目がヒョッコリ出たのであります。三つ口に生まれついた者、せむしに生まれついた者にとってはそういうサイの目が出たのであります。
 ニーチェの『ツァラトゥストラ』の中にこういう話があります。ツァラトゥストラがある日、大きい橋を渡っていたところが、片輪だの乞食だのがとりまいてきた。その中にひとりせむしがいてツァラトゥストラに向かって、「だいぶ大勢の人があなたの教えを信じるようになってはきたが、まだ皆とはいかない。それには一つ大切なことがある。それはまず私どものような片輪までも説きふせなくてはだめだ」といったのであります。それに対してツァラトゥストラは「意志が救いをもたらす」ということを教えたのであります。せむしに生まれついたのは運命であるが意志がその運命から救い出すのであります。「せむしに生まれることを自分は欲する」という形で「意志が引き返して意志する」ということが自らを救う道であることを教えたのであります。このツァラトゥストラの教えは偶然なり運命なりにいわば活を入れる秘訣であります。人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならないと私は考えるのであります。≫(九鬼周造『偶然と運命』より)

Zhuangzi
『今之大冶鑄金、金踊躍曰「我且必為??」大冶必以為不祥之金。今一犯人之形、而曰「人耳人耳」夫造化者必以為不祥之人。今一以天地為大鑪、以造化為大冶、惡乎往而不可哉。成然寐、?然覺。』(『荘子』大宗師 第六)
→今、偉大な鋳物師が青銅を溶かして剣を作っているとき、ドロドロになっている青銅が「どうか私を伝説の名剣である??の剣にしてください」と叫んだとしよう。鋳物師は「できの悪い青銅だな」と思うことだろうよ。人だって同じように死ぬ間際になって「人間だ、人間以外に生まれたくない。」といえば、造化は「できの悪い人間だ。」と思うだろうよ。天地は大きな炉、造化は鋳物師だとすれば、次なる生はどんな形であったとしても構わないさ。身も心も安らかに眠り、ゆっくりと目覚めるだけだ。」

参照:The Rolling Stones - "Dandelion" (1967)
http://www.youtube.com/watch?v=Urzxg3IAWNE

“Tinker, tailor, soldier, sailors lives
Rich man, poor man, beautiful, daughters wives
Dandelion don't tell no lies
Dandelion will make you wise
Tell me if she laughs or cries
Blow away dandelion, blow away dandelion ”

今日はこの辺で。


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