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人生朝露

人生朝露

ブルース・リーと禅と荘子。

李小龍(Bruce lee 1940~1973)。
ブルース・リーと荘子のつづき。

参照:ブルース・リーと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005184/

今回も『グンフーへの道(中国武道の研究)』から
“The Tao of Gung Fu”。
≪慈悲の女神、観音は、ときとして、それぞれが別の道具をもった千本腕の女神として描かれる。彼女の心が、たとえば剣を使うことだけにとらわれてしまったら、数にして999本におよぶそれ以外の腕は、まったく何の役にも立たなくなる。心が1本の腕の使い方にとらわれず、ひとつの道具から次の道具へと移りゆくことによってのみ、その腕のすべてが、最大の効率とともに、有用たることが可能になるのである。
 たとえばわたしが木を見るとき、葉の1枚が赤いことに知覚すると、私の心はその葉にとらわれてしまう。こうなると、わたしには1枚の葉しか見えず、ほかの無数の葉はいつまでたっても目に入らない。もし、自分の注意を1枚の葉だけに向けるのではなく、なんの先入観ももたずに木を見れば、すべての葉が見えるだろう。たった1枚の葉がわたしの心を足止めし、残りのすべてを見えなくしてしまうのだ。しかし、心が立ち止まることなく進んでいけば、間違いなく何万枚もの葉を目にできるだろう。
 それゆえ、一瞬でも立ち止まったとたん、あなたの心はもはやあなたのものではなくなり、他者のコントロール下に置かれてしまう。心がすばやく動くための計算をはじめたら、その考えそのものに、心が支配されてしまうのだ。チーサオを完璧に究めれば、身体と四肢は心からの干渉ぬきで、おのずと各部位に割りふられた動きをするようになる。テクニカルな技術が完全に自動化されているため、意識的な努力とはまったく無縁でいられるのだ。≫(ブルース・リー著・奥田祐二訳『グンフーへの道(中国武道の研究)』より)

ブルース・リーが、詠春拳の黐手(チーサオ)のプログラムの中で説いている箇所で、同時に「不動智」について記述しています。ブルース・リーは「不動智」について別の書物でこう記しています。
葉問と李小龍。
≪不動の智慧(prana)
不動の智慧は、まどいを粉砕する。動かないということは、目に入ってくる対象に「留まらない」ことを意味する。「一心」。「非断定。」≫(ブルース・リー著・奥田祐士訳『截拳道』「ブルース・リーの格闘哲学」より)

沢庵宗彭(1573~1646)。 宮本武蔵(1584~1645)。
この出典は、沢庵禅師が柳生宗矩に送った『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』から。剣禅一如という境地をあらわした、簡潔ながらも内容の濃い書物です。塚原卜伝、宮本武蔵ときて、今度は柳生の剣と移ります。武蔵の『五輪書』も、沢庵禅師の『不動智神妙録』も同じ寛永年間に記されたもので、「石火」「無念無相」「拍子」「空」などの用語の使われ方もそうですし、内容も似ています。その下地にある思想は同一のものでしょう。

参照:Wikipedia 不動智神妙録
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2

ブルース・リーと東洋の思想  その4。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5183/

ちなみに、沢庵禅師も「水のたとえ」を説きます。
沢庵宗彭(1573~1646)。
≪たとへば本心は水の如く一所に留らず、妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗はれ不レ申候。氷を解かして水と為し何所へも流れるやうにして、手足をも何をも洗ふべし。心一所に固り一事に留り候へば、氷固りて自由に使はれ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候。心を溶かして総身へ水の延びるやうに用ゐ、其所に遣りたきままに遣りて使ひ候。是を本心と申し候。(沢庵宗彭『不動智神妙録』本心妄心)≫

参照:「如水」の由来と諸子百家。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5179/

おそらく、ブルース・リーが『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』に最初に触れたのは、鈴木大拙の『禅と日本文化(Zen and Japanese Culture)』の英語版であろうと思われます。
“Zen and Japanese Culture” D.T.Suzuki 1959。
≪千手観音とて、手が千御入り候はば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆用に立ち申す間敷、一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり。観音とて、身一つに千の手が何しに可レ有候、不動智が開け候へば、身に手が千有りても皆用に立つと云ふ事を、人に示さんが為めに作りたる容にて候。假令一本の木に向ふて其の内の赤き葉一つ見て居れば、残りの葉は見えぬなり。葉ひとつに目をかけづして、一本の木に何心もなく打ち向ひ候へば、数多の葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず、一つに心を止めぬば、百千の葉みな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候。然るを一向の凡夫は、唯一筋に、身一つに千の眼が何しにあるらん、虚言よと破り讒る也。今少し能く知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、佛法はよく一物にして其理を顴す事にて候。諸道ともに斯様のものにて候。神道は別して其道と見及び候。有の儘に思ふも凡夫、又打破れな猶悪し、其内に道理有る事にて候。此道彼道さま/\〃に候へども、極所は落着候。扨初心の地より修行して不動智の位に至れば、立帰て住地の初心の位へ落つべき子細御入り候。貴殿の兵法にて可レ申候。初心は身に持つ太刀の構も何も知らぬものなれば、身に心の止まる事もなし、人が打ち候へば、つひ取合ふばかりにて、何の心もなし。然る處にさま/\〃の事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろ/\の事を教へぬれば、色々の處に心が止まり、人を打たんとすれば、兎や角して殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね稽古をするに従ひ、彼は身の構も太刀の取様も、皆心のなくなりて、唯最初の何もしらず習はぬ時の心の様になる也、是れ初と終と同じやうなる心持にて、一から十までかぞへまはせば、一と十と隣になり申し候。調子なども、一の初の低き一をかぞへて上無と申す高き調子へ行き候へば、一の下と一の上とは隣りに候・・・
(原註)この事は私に百足の話を思い出させる。百足が、どうしてそんなにたくさんの脚を、一時にそろえて動かすことができるのか、と尋ねられた時、その問いが百足を「止め」て、それについて考えさせた。この「止る」ことを考えることが、脚の間に大混乱を起して、めいめい勝手に動こうとした。百足はそれで命を失った。荘子の渾沌の話も、これにかんして、はなはだ興味があろう。≫(鈴木大拙著・北川桃雄訳『禅と日本文化』「第四章 禅と剣道」より)

このくだりは『荘子』とも両行するため、『不動智神妙録』の注釈にあえて『荘子』を入れています。もちろん、荘子の場合、同じ命題に関して、千手観音で喩えることはありません。彼の場合は、千の手よりも百の足の方です。

荘子 Zhuangzi。
『夔憐蚿、蚿憐蛇、蛇憐風、風憐目、目憐心。
夔謂蚿曰「吾以一足趻踔而行、予無如矣。今子之使萬足、獨奈何?」
蚿曰「不然。子不見夫唾者乎?噴則大者如珠、小者如霧、雜而下者不可勝數也。今予動吾天機、而不知其所以然。」
蚿謂蛇曰「吾以衆足行、而不及子之無足、何也?」
蛇曰「夫天機之所動、何可易邪?吾安用足哉。」』(『荘子』秋水 第十七)
→夔(キ)は蚿(ムカデ)を羨み、蚿は蛇を羨み、蛇は風を羨み、風は目を羨み、目は心を羨む。
 夔は蚿にいわく「私は一本足でぴょんぴょん進むばかりだが、あなたにはそうではない。あなたは今たくさんの足を使って歩いているけど、どうしているんです?」
蚿(ムカデ)いわく「そうではない。あなたは人がツバというもの噴くのを見たことがあるかい?噴きだされると大きなものは珠のようであり、小さなものは霧のようだ。ツバ一つをとっても、数え切れないほど様々な形があるものさ。私の足の多さも、その様々な違いの一つだろう。天分というものに従って生きているのだから、どうしてこうなっているのかなんて、分からないんだ。」
 蚿(ムカデ)が蛇にいわく「私には無数の足があるのに、足のないあなたに及ばないのはなぜなんだろう?」
 蛇いわく「私も天分によって動いているだけで、自分の都合で変えることはできないんだよ。足がないからこうやって動いているだけで、これが私にとっての当たり前なのさ。」

Zhuangzi
『且子獨不聞壽陵餘子之學行於邯鄲與?未得國能、又失其故行矣、直匍匐而歸耳。』(『荘子』秋水 第十七)
→あなたは、寿陵の若者が邯鄲の都に歩き方を学びに行った話を聞いたことがないかね?その若者は、はやりの歩き方を学ぶことも半端なまま、本来の歩き方すら忘れて、這いずりながら故郷の寿陵に帰ったそうだ。

・・・ブルース・リーが日本の書物を引用する場合、必ずと言っていいほど中国の思想の裏打ちのあるものから引っ張ってきます。

General Grievous Vs. Obi-Wan Kenobi。
おさらい。

参照:Jedi Master Kit Fisto vs General Grievous
http://www.youtube.com/watch?v=R-t9GlT9qmk

Obi-Wan Kenobi vs General Grievous
http://www.youtube.com/watch?v=7oGf-a1Dqlc

TAO OF JEET KUNE DO。
≪ムカデの話
 マーシャルアーティストが求める流動性をもっともうまく描き出しているのが、このムカデの話だ。たくさんの足をもつこの生き物は、それだけの足を使ってどうやって歩いているのか、と質問された。足を止めて、日々の動きをどうまかなっているのか考えはじめたとたん、そのムカデは足をもつれさせて転んでしまった。だから人生は、ナチュラルなプロセスでなければならず、精神の進歩が人生の自然な流れのバランスをくずすようなことがあってはならないのだ。≫(『截拳道』「ブルース・リーの格闘哲学」より)

今日はこの辺で。


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