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どうやら、1月も大して暇ナシのようです。
久々の休みに、 ジェームス・キャメロンの最新作、「アバター」を観に行きました。いや、この作品は予告を観た瞬間に大笑いてしまうものだったからでして・・。 参照:映画「アバター」90秒TVCM3部作パート1+パート2 http://www.youtube.com/watch?v=medQueK5n7Y で、「アバター」の感想なんですが、予告を観たときの直感通り、「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」へのオマージュがバリバリなんですよ。で、まぁ単純に考えると日本映画のパクリ・・・となってしまいそうなんですが、 これも「荘子」なんです。「アバター」の冒頭に出てくる、 ・夢と現実の境がない ・人間の意識が他の生物に乗り換わる というのは、「胡蝶の夢」「知魚楽」に非常に近いですよね?ま、「胡蝶の夢」は省略しまして、「知魚楽」についても、湯川秀樹さんの随筆と、茂木健一郎さんのブログを貼っておきます。 参照: 恵子 × 荘子 「知魚楽」 http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card69772.html 茂木健一郎 クオリア日記 2008/12/31 魂のひりひり http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/12/post-b66d.html この「知魚楽」の発想は「攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)」も使っているものでして、さらに、今度公開されるブルース・ウィリスの「サロゲート」も人間の遠隔操作や、リアリズムの欠落とかいったものでテーマもまったく同じ(笑)。 参照:サロゲート(2009)予告編 SURROGATES Trailer http://www.youtube.com/watch?v=ZH43LVtaXV8 他にも、 ・鳥とともに空を飛ぶ ・造物主が生と死を司る ・未開の人びとの営み ・頭を空っぽにしろ。考えずに感じろ。 ・生物のネットワーク(経路としてのTAO) 等々、荘子の世界観と「アバター」との共通点が見られます。でも、もっと重要なことがあるんです。 巨木の下で暮らすナヴィという原住民と、その地下に眠る鉱物のために木を切り倒そうとする人間との戦いという根底のストーリーこそが重要です。人間の価値観と「価値のない木」・・。役に立たない木に関しては何度も書きました。 莊子曰「今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之郷、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下?不夭斤斧、物無害者、無所可用、安所困苦哉。」(『荘子』逍遥遊 第一) →荘子は言った。「あなたはせっかく大きな木を持っているのに、役に立たないなどと嘆いている。ならば、この役に立たない木を『無何有の郷』に植え替えて、広々とした大地でその木の周りをぼんやりと逍遥し、のんびり昼寝でもしたらどうだい?斧で切り落とされる心配もなく、無用なもののようでいても、少しも困ることはないよ。」 参照:当ブログ 夏目漱石と荘子 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5011 当ブログ 荘子と進化論 その24。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200910260000/ 当ブログ 荘子と進化論 その23。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200910140000/ 当ブログ 荘子と進化論 その30。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200911300000/ ・・・答えは、この本に載っています。 環境の思想家たち 上 (ジョイ・A・パルマー編、 須藤 自由児 訳 みすず書房) 世界的に影響を与えた環境思想家をリストアップしているこの本。 最初が、仏陀(紀元前5世紀)、二人目が荘子(紀元前4世紀)です。次にアリストテレス(紀元前384~322)となります。 以下、ウェルギリウス(紀元前70~19) アシジの聖フランチェスコ(1181~1226) 王陽明(1472~1528) ミシェル・ドゥ・モンテーニュ(1533~1592) フランシス・ベーコン(1561~1626) ベネディクト・スピノザ(1632~77) 松尾芭蕉(1644~94) さらにずっと下って当然ハイデガーもいやがります(笑)。 「二千年以上のあいだ――儒家の教えに対する皇帝の公認と、のちの毛沢東による野蛮な敵視にもかかわらず――道家思想は、中国人の生活のさまざまな面、特に道家の風景画と詩に示された自然との親しい関係を強固に形づくった。これに劣らず重要なのは、中国と日本における宗教の発展に与えた影響であり、道家思想の真の後継者は「神秘的」道教ではなく、チャン――あるいは日本では禅――仏教として知られている、あの道家思想と仏教思想の興味深い融合である。芭蕉の俳句は、本書の別の章でも論じられているが、仏教の負うところが大きいと同様に荘子にも負うところが大きい。哲学的な道家思想は、とりわけ自然に対する人間の関係についての見方ゆえに、20世紀全体を通して、多くの西洋の思想家を魅きつけた。その見方は、多くの西洋人の目には、かれら自身の社会の見方とは好ましい対極をなしていると映るのである。マルティン・ハイデガーは技術にたいする二十世紀の最も透徹した批判家だといえるが、彼はかつて「道徳経」の翻訳に取りかかったことがあり、そして道家がハイデガーの思想に及ぼした影響は、彼が折に触れて認めている以上に大きい。最近の数十年間、多くの環境倫理学者が熱狂的に道家思想を唱えてきた。しかし、荘の「環境倫理」について語るのは人を誤らせることだ。彼が、たとえば動物の「権利」だとか、自然に対する人間の「責務」だとかについて語ることに何の共感も持たなかっただろうということは確かである。彼の見方では、そのように語ること――道徳性、正義、正直、善行について語ること――は「人が道を見失って」しまい、そして、それゆえ、もはや「道に一体化して」いないということの確かな徴なのである(22.1)自然に「事物のあるがままにまかせる」人は、道徳原理を必要をしていないのである。」(「環境の思想家たち 上」 「荘子」より) David E. Cooperという、ダラム大学の教授さんの文章なんですが、いい線いってんじゃねえの(笑)。 そうなんですよ。 荘子って、世界最古級の「環境思想家」としての影響力が絶大なんです。ある意味、いまだ現役なんですよ(笑)。ま、確かに中国やインドの近代化が進んで「現代の話」とするとどうもしっくりきませんが、環境思想ってのは、東洋思想ですよ。特にキリスト教が広まった以降のヨーロッパなんぞに東洋の思想が遅れを取るはずがありません。環境問題って、ここ、2,30年で西洋が急に目覚めて大声を上げるようになったものでしょ?捕鯨問題とか見れば分かるように、西洋人の自然との付き合いって明らかに偏執的でしょ?西洋の作品でも「環境」をテーマにすると、荘子から引っ張ってくるんですよ。 例えば、 『是故梟脛雖短、続之則憂。鶴脛雖長、断之則悲。故性長非所断、性短非所続、無所去憂也。』(『荘子』 駢拇第八) →故に、鴨の脛が短いといって無理矢理継ぎ足しても鴨は嫌がるし、鶴の脛が長すぎるといって切り取ったら鶴は嘆き悲しむだろう。人間の考えで長い短いを勝手に判断して継ぎ足そうが、断ち切ろうが、迷惑なだけの話だ。 これは、まんま芭蕉がパロディとして使っています。 鷺の足雉脛長く継添て 芭蕉 しかし、荘子は「環境思想」の枠において、東洋の中でも突出しています。仏教では仏性というものは動物までなんですが、荘子は草木や石ころにも「道」を認めているわけですから。 ・・・で、当ブログでもずっと前に注目したんですが、「徒然草」の第百三十七段で、荘子マニアの兼好法師が、桜の花を「手折る」花盗人の行為を怒るという箇所がございます。 参照:当ブログ 花盗人は風流のうち。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200703090000/ ・・もしかすると、ですね。これも。 蝶々や 花ぬすびとを つけて行く ・・・本来、東洋人が最初から持っている思想を、西洋人から持ってくるからおかしなことになるんですよ。 マイケル・ジャクソンの“This is it”で、アジア系の少女が蝶と共に眠るシーンがわざわざ挿入されていたのも、環境思想家としての荘子のオマージュだと思われます。あえて「胡蝶の夢」を使っているわけです。 参照:当ブログ “This is it”。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200911240000/ 『日月出矣、而爵火不息、其於光也、不亦難乎。時雨降矣,而猶浸灌、其於澤也、不亦労乎。』(『荘子』逍遥遊 第一) →太陽も月も出ているのに、休まずにかがり火を焚いてその光と競い合い、雨が降っているのに、わざわざ灌漑から水を汲み出して使う。無駄なことではないか? 良い子は、電気を消して早く寝ましょう。 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.01.14 00:09:01
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