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前回の靖国神社の続き。
参照:靖国神社と中国古典。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201403070000/ 今回も『三国志演義』から。 諸葛亮が北伐に備えて、南方の脅威となりうる南蛮の孟獲を平定した後、現地のたたり神を鎮めるために、祭祀を執り行っているシーン。 ≪孔明甚疑、即尋土人問之。土人告說「自丞相經過之後、夜夜只聞得水邊鬼哭神號。自黃昏直至天曉、哭聲不絕。瘴煙之內、陰鬼無數。因此作禍、無人敢渡。」孔明曰「此乃我之罪愆也。前者馬岱引蜀兵千餘、皆死於水中。更兼殺死南人、皆棄於此。狂魂怨鬼、不能解釋、以致如此。吾今晚當親自往祭於水濱。」土人曰「須依舊例、殺四十九顆人頭為祭、則怨鬼自散也。」孔明曰「本為人死而成怨鬼、豈可又殺生人耶?吾自有主意。」喚行廚宰殺牛馬、和麵為劑、塑成人頭、內以牛羊等肉代之、名曰「饅頭。」 當夜於瀘水岸上、設香案、鋪祭物、列燈四十九盞、揚旛招魂。將饅頭等物、陳設於地。三更時分、孔明金冠鶴氅、親自臨祭、令董厥讀祭文。其文曰「維大漢建興三年秋九月一日、武鄉侯領益州牧丞相諸葛亮、謹陳祭儀、享於故歿王汹事蜀中將校以及南人亡者陰魂曰「我大漢皇帝、威勝五霸、明繼三王。昨自遠方侵境、汹異俗起兵。縱蠆尾以興妖、恣狼心而逞亂。我奉王命、問罪遐荒。大舉貔貅、悉除螻蟻。雄汹軍雲集、狂寇冰消。纔聞破竹之聲、便是失猿之勢。但士卒兒郎、盡是九州豪傑。官僚將汹校、皆為四海英雄。習武從戎、投明事主、莫不同申三令、共展七擒。齊堅奉國之誠、共效汹忠君之志。何期汝等偶失兵機、緣落奸計。或為流矢所中、魂掩泉臺。或為刀劍所傷、魄汹歸長夜。生則有勇、死則成名。今凱歌欲還、獻俘將及。汝等英靈尚在、祈禱必聞。隨我旌汹旗、逐我部曲、同回上國、各認本鄉、受骨肉之蒸嘗、領家人之祭祀。莫作他鄉之鬼、徒為汹異域之魂。我當奏之天子、使汝等各家盡霑恩露。年給衣糧、月賜廩祿。用茲酬答、以慰汝心。至於本境土神、南方亡鬼、血食有常、憑依不遠。生者既凜天威、死者亦歸王化。想宜寧帖、毋致號啕。聊表丹誠、敬陳祭祀。嗚呼、哀哉!伏維尚饗!」(『三国志演義』「第九十一回 瀘水を祀って漢相 師を班(かえ)し、中原を伐たんとして武侯 表を上す」より)≫ →孔明は不審に思い、土地の者に尋ねてみると、土地の者は言った。「丞相がここを通り過ぎて後に、夜な夜な水辺から鬼の泣き声が聞かれるようになりまして、夕刻から夜明けまでその泣き声は絶えることがありません。霧が立ち上り、無数の鬼が出てくるようで、気味が悪くて誰もこの道を通りません。」孔明いわく「これは我が過ちによるものだ。馬岱が率いた千餘の蜀兵たちが皆、水の中で死に絶えた。戦って死んでしまった南人の遺体もここに打ち棄てられたままで、行き場を失った魂や恨みを残した幽鬼が、浮かばれないままこのようなことになったのだろう。今わたしがこの水辺で死者たちを祀ろう。」土地の者が言った「この地では昔から四十九人の生首をお供えすれば、幽鬼はおのずと退散するとなっております。」孔明は「彼らは死んだからこそ幽鬼と成り果てたのだ。これ以上殺してしまってどうする?私に思うところがある。」というと、料理人を呼んで、牛馬の肉を捌かせ、小麦をこねて作った生首に牛や羊の肉を詰めさせた。そして、これを「饅頭」と名付けた。 その夜、濾水の岸辺で香台をしつらえて祭物を並べ、四十九の燭台を立てて、招魂の旗を掲げた。饅頭などの供物は、地に置かれた。三更の自分になると孔明は金冠をかぶって法衣をまとい、うやうやしく祭りに臨み、董厥に祭文を読み上げさせた「(中略)皆、奉国の誠を全うし、忠君の志を抱いていた。どうして予期できようか。汝らは武運に恵まれずに奸計にかかり、ある者は流れ矢に当たることとなってその魂は墳墓を覆い、またある者は刀傷からその魄は長夜に帰ってしまった。生きては勇があり、死してはその名を残す。今、凱歌をあげて帰ろうとし、敵の首級を献じて大将の位まで上り詰めようとした汝らに英霊があれば聞かれよ。われらが旗に随い、われらが征旅を追い、ともに国へと帰って、汝らそれぞれの故郷を認めて、蒸嘗の祭りで供え物を受け、汝らの家人の祭祀を見届けよ。他の郷の鬼となり、異国の魂となってくれるな。(中略)生ける者はすでに天威に服した、死せる者も王化に帰せよ。泣き叫ぶなかれ。ここにわずかながらでも丹誠を表し、謹んで祭祀をひらく。ああ、哀しいことだ。伏してねがわくは、これを受けよ。」 ・・・諸葛亮が「饅頭」を発明したという有名な俗説のくだりです。この場合の饅頭は日本でいうと埴輪とかのイメージでしょうか。現地の風習を踏襲しながらも、人間を生贄に捧げる代用品として饅頭が使われています。全体的に見ると、現在でも神道の形式で行われる「地鎮祭」に近いものだと思います。 後半に「英霊」「招魂」という言葉があります。 諸葛亮は死者の魂に、故郷に帰れと言っています。この祭文は「魂魄(こんぱく)」を念頭に置くとしっくりくる部分があるかと思います。「魂」と「魄」。日本語では両方とも「たましい」と読みますが、性質の異なる「たましい」が重なり合ったものとしての「魂魄」です。簡単に言うと「空気よりも軽くて天と同化するたましい」を魂、「空気よりも重くて大地と同化するたましい」を魄という意味合いです。ざっくり言うと、死者の場合は「霊魂」と「遺体」の関係です。 参照:太陽と月、男と女の錬金術。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005148/ ちょっと脱線。 今から十年前、平成16年に西安市(かつての長安)で、遣唐使・井真成(せいしんせい・いのまなり)という人物の墓誌が偶然発掘されました。パワーショベルによって一部欠落していたそうですが、おおよそこんなことが書いてあったそうです。 贈尚衣奉御井公墓誌文并序 公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能 ■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶 ■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終 ■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月 ■日乃終于官弟春秋卅六皇上 ■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官 ■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水 ■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠 ■兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰 ■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶 歸于故郷 →姓は井、字(あざな)は眞成、国号は日本である。元来才気に溢れ、遠く離れた故国の命により入唐した。この国で礼を学び、衣冠束帯を与えられていれば、その仕事ぶりは目覚しいものであっただろう。ところが、はからずも学問に精励し、道を聞く半ばの開元二十二年正月、官舎において、わずか三十六歳でこの世を去った。 (玄宗)皇帝陛下ははこれを聞いて悲しみ、詔勅により尚衣奉御の職を追贈し、公の葬儀を行い、同年二月、礼によって萬年県の河にて弔った。 ああ!暁の下で柩をのせた素車が引かれていく。道沿いに真っ赤な幟が立てられて君への悲しみを表している。 眞成は、遠き故国を思い、夕刻に倒れ、今では町外れの墓で悲しみに暮れている。その辞にはこうあった。「死は人が避けられぬ天の常道とはいえ、哀しむべきはそれが遠く離れたこの地であったことだ。身体はすでに異国の土となったが、魂は故郷に帰らんことを」。 この墓誌は、「日本」という国号が、海外で最初に記録されたものとして話題になりました。井真成という人は、玄宗の時代の開元二十二年に亡くなったとありますので、日本では天平年間、西暦734年のことだそうです。おそらく遣唐使船に乗って東シナ海を渡ったとみられますが、唐における彼の待遇が異例づくしなので、詳しいことは分かりません。ここでも、最後に「形旣埋于異土魂庶歸于故郷(身体はすでに異国の土となったが、魂は故郷に帰らんことを)」とあります。井真成の亡骸(魄)は長安の都の郊外に眠っていても、その魂は再び故郷へ帰ってほしいという願い。 参照;Wikipedia 井真成 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%9C%9F%E6%88%90 再び『三国志演義』。 「伏龍(ふくりょう・伏した龍の意)」「鳳雛(ほうすう・鳳凰の雛の意)」として、諸葛亮と並び称された智者・龐統(ほうとう)が、張任の待ち伏せに遭い、その名も「落鳳坡(らくほうは・鳳凰が落ちる坂の意)」という谷で無残にも射殺された後のシーン。 ≪玄徳一行軍馬、再入涪關。問龐統消息。有落鳳坡逃得性命的軍士、報說「軍師連人帶馬、被亂箭射死於坡前。」玄徳聞言、望西痛哭不已、遙為招魂設祭。諸將皆哭。黃忠曰「今番折了龐統軍師、張任必然來攻打涪關、如之奈何?不若差人往荊州、請諸葛軍師來商議收川之計。」正說之間、人報「張任引軍直臨城下搦戰。」黃忠、魏延皆西要出戰。玄徳曰「銳氣新挫、宜堅守以待軍師來到。」黃忠魏延領命、只緊守城池。(『三国志演義』第六十三回 (諸葛亮 痛んで龐統のために哭き、張翼徳 義をもって嚴顏を釈(ゆる)す」 より)≫ →玄徳一行の軍勢は再び涪關(ばいかん)に入り、龐統の消息を問うた。すると、落鳳坡から命からがら逃げ延びた兵がおり、こう報告した。「軍師は馬とともに、あの谷で雨のような矢を浴びて討死なさいました。」玄徳はその言を聞くや、西を望んでむせび泣き、遥かに離れた地を思い、招魂の祭を設け、諸將は皆声をあげて哭いた。黄忠はその中で「今、龐統軍師が亡くなったことを聞けば、張任は必ずやこの涪關に撃って出るでしょう。いかがなさいます?荊州に使いをやって、諸葛軍師に援軍を頼み、西川を収める策をとるのがよいと思われます。」と言う。まさにその時「張任が軍を率いて城下に迫っている」との物見からの報せが入った。黄忠、魏延が西方で迎撃しようと進言すると、玄徳は「兵の鋭気が挫けておる、守を堅くして軍師の来援を待とう。」と言った。黄忠・魏延はその命に従い、守城に徹して外に出ようとはしなかった。 ここにも再び、「招魂」という言葉が出てきます。龐統(ほうとう)の遺体を回収できないので、魂を呼び寄せて弔うという形式。これは正史としての『三国志』にはありませんが、後の歴史書『晋書』には、東海王・司馬越の死に際して、その遺骸が焼かれてしまったため、その遺族が「招魂葬」を嘆願したという記録があります。中宗が「塚は遺体を蔵すものであり、廟は神を安んずるものである。招魂葬なるものは神を理める行為である。」という博士の意見を容れて「礼に失する」ということで、 太興元年(318年)に禁止したとされています。時代はずれるものの、似た風習はあったはずなので、後の小説『三国志演義』の筆者は、『晋書』のこの記述を参考にしたと思われます。 続きはいずれ。 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.29 13:07:27
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