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まずは、今から1000年以上前の唐の時代の漢詩を二首。
題衛將軍廟(衛将軍の廟に題す) 許渾(唐代) 武牢關下護龍旗 武牢関の下で龍旗を護り 挾槊彎弧馬上飛 反りあがった矛を挟んだまま馬と共に駆け抜ける 漢業未興王霸在 漢業は未だ興らずとも王覇はあり 秦軍才散魯連歸 秦の軍才は散り散りになって魯連は帰る 墳穿大澤埋金劍 大澤を穿った墳に金剣を埋め 廟枕長溪掛鐵衣 廟を枕にして長渓に帷子をかける 欲奠忠魂何處問 忠魂を奠(まつ)りたいとしてもどこに問えばよいだろう 葦花楓葉雨霏霏 葦花と楓葉に雨がしとしとと落ちている 衛将軍「逖(てき)」という人物の功績を称える廟に贈られた詩のようですが、途中に「忠魂」という言葉があります。「英霊」という呼び名は、日露戦争以降の流行語で、それ以前は「忠魂」という呼び名が一般的でした。「忠」という儒教的な観念は儒家のみならず、日本の思想の背骨ですが、「忠魂碑」の「忠魂」という表現は、これが一番古いんじゃないかと思います。 次、 征婦怨 張籍(唐代) 九月匈奴殺邊將 九月匈奴が国境の守備兵を殺し 漢軍全沒遼水上 漢の軍勢が遼水のほとりで没した 萬里無人收白骨 遠く離れた兵士の骨を拾いに行ける者もなく 家家城下招魂葬 家々の者たちは城下で招魂葬を設けた 婦人依倚子與夫 婦人にとっては夫と子供こそよりどころ 同居貧賤心亦舒 一家が揃っていればたとえ貧しくとも心は豊か 夫死戰場子在腹 夫を戦場で失い、夫との間の子供はお腹の中 妾身雖存如晝燭 女と赤子は生きながらえたとしても、まるで日中に灯る明かりのよう こちらには、まさに「死して屍拾う者なし」の状況であったので、城下で「招魂葬」を開いたとあります。思想書よりも、小説、小説よりも漢詩というツールを通して観た方が楽かなということで、今回はその辺を。 参照:招魂と英霊の『三国志演義』。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201403180000/ まずは、幕末の水戸学者、藤田東湖の「和文天祥正氣歌」。 和文天祥正氣歌(文天祥の正気の歌に和す) 藤田東湖 天地正大氣 天地の正大の気 粹然鍾神州 粹然として神州に鍾(あつま)る 秀爲不二嶽 秀いでては不二(富士)の嶺となり、 巍巍聳千秋 巍巍として千秋にそびえる (中略) 承平二百歳 平和を保つこと二百年 斯氣常獲伸 この気は常にのびやかに広がっていった 然當其鬱屈 たとえ鬱屈とした世であっても 生四十七人 赤穂の四十七人に生き 乃知人雖亡 それを正気と知る者が死んでも 英靈未嘗泯 英霊が滅んだことはない 長在天地間 永らく天と地の間にあり 凛然敍彜倫 凛然として不朽の倫理を示す 孰能扶持之 誰がこれを保ち続けるのだろう 卓立東海濱 東海の浜にすっくと立ち 忠誠尊皇室 皇室に忠誠を尽くして尊び 孝敬事天神 父母のように天神を敬い 修文与奮武 文を修め、武を奮い 誓欲清胡塵 誓って夷狄から世を清めようとなさった (中略) 屈伸付天地 天命の長短は天地に属し 生死又何疑 生死を疑うことなどありえようか 生當雪君冤 生きては主君の冤をすすぎ 復見張四維 斉昭公の再政を見る 死爲忠義鬼 死しては忠義の鬼となり 極天護皇基 天の極みまで皇室の礎を護る 文天祥とは、元によって滅ぼされた宋の遺臣で、フビライに幾度ともなく元への帰順を請われたものの、宋への忠節を曲げずに刑死した人物です。フビライによって幽閉されていたときの文天祥の作として名高い「正氣の歌」を、藤田東湖は、幼少期に習ってこれを克明に記憶していたそうです。尊王・攘夷を兼ねる、大変ナショナリスティックな漢詩ですが、後の明治の時代に入ってからも大衆に好まれたものだったようで、途中に出てくる「英靈未嘗泯」の「英霊」が、靖国の用語としての「英霊」の典拠とされています。 参照:Wikipedia 文天祥 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5 次は、西郷隆盛の「謫居之作」。 島津久光公を怒りを買って沖永良部に流された西郷が幽閉された時に作ったものです。 謫居之作 西郷南洲 朝蒙恩遇夕焚坑 朝に恩寵を賜りながら、夕べには焚書坑儒の憂き目にあう 人生浮沈似晦明 人生の浮き沈みは、昼夜の営みにも似ている 縦不回光葵向日 たとえ、光に当てずとも葵は日に向かうように 若無開運意推誠 運に恵まれずとも、誠意を推し進めよう 洛陽知己皆為鬼 洛陽(京都)の友人たちは、みな鬼となったが 南嶼俘囚独竊生 私は一人、南の島の虜囚として生を盗んでいる 生死何疑天附興 生死は天によりもたらされるものだと疑う余地もない 願留魂魄護皇城 願わくは魂魄を留めて皇城を護らんことを ここにも「魂魄」という言葉があります。たとえ死んでも皇城を守護しようという西郷の決意が文末に出てきます。 ちなみに、西南戦争以降、勝海舟が西郷を偲んで建てた「留魂碑」という石碑の「留魂」は、この漢詩に由来します。現在では勝夫妻のお墓の隣にあるそうです。 参照:留魂碑 http://otaku.edo-jidai.com/414.html 漢詩ではないものの「留魂」つながりで、吉田松陰の『留魂録』の冒頭を。 ≪「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 十月念五日 二十一回猛士 第一節 一 余、去年已来、心蹟百変挙て数え難し。就中趙の貫高(かんこう)を希い、楚の屈平(くっぺい)を仰ぐ。諸知友の知る所なり。故に子遠(しえん)が送別の句に、「燕趙多士一貫高荊楚深憂只屈平のこと」と云うもこの事也。然るに五月十一日、関東の行を聞しよりは又一の誠字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る。余、これを用いず。一白綿布を求めて「孟子至誠而不動者未之有也」の一句を書し、手巾ヘ縫い付け携て江戸に来り。(吉田松陰著『留魂録』より)≫ ・・・吉田松陰が仰いだ人物として、「屈平」という名前があります。これは、松蔭の弟子、高杉晋作の「囚中作」にもあります。 囚中作 高杉晋作(東行) 君不見死爲忠魂菅相公 君は知っているか、菅原道真公が死して忠魂となったことを 靈魂尚存天拜峰 その霊魂は今なお天拝山にあるという 又不見懷石投流楚屈平 また知っているか、楚の屈平が岩を抱いて川に身を投げたことを 至今人悲汨羅江 いまでも人々が汨羅(べきら)の江で悲しんでいるという 自古讒間害忠節 古より忠節は他者の讒言によって害されてきた 忠臣思君不懷躬 忠臣は君主を思いながら、自らを顧みることがない 我亦貶謫幽囚士 私もまた囚人として貶められ 思起二公涙沾胸 二公を思い起して涙で胸を濡らしている 休恨空爲讒間死 たとえ讒言によって死んだとしても怨むことはない 自有後世議論公 きっと後の世に公で議論されることになろう ・・・ここにも「忠魂」という言葉がありますが、太宰府に祭られる「菅相公」と並んで「屈平」とあります。屈平というのは、紀元前の中国最大の詩人・「屈原(紀元前343~278)」のこと。藤田東湖の「瓢兮の歌」にも登場します。上記の日本漢詩のすべての源流にあるのが『楚辞(そじ)』にある漢詩です。 国殤(『楚辞』「九歌」より抜粋) 屈原 出不入兮往不反 出でて入ることも、往きて反ることもない 平原忽兮路超遠 平原ははるかに、征路は果てしなく遠い 帶長劍兮挾秦弓 長剣を帯びて、秦の弓を手挟む 首身離兮心不懲 首を撥ねられたところで、悔いることもない 誠既勇兮又以武 誠の勇がありながら、武も備え 終剛強兮不可凌 終わりを迎えるまで剛強にして不可侵 身既死兮神以靈 たとえ身体は死しても、その靈は神 魂魄毅兮爲鬼雄 魂魄は剛毅にして鬼雄となる 屈原は、春秋戦国時代の楚の国の重臣であり、秦による楚への懐柔策を見破り、楚の懐王に国の危機を訴えながらも聞き入れられず、絶望の内に汨羅(べきら)の川に石を抱いて入水自殺を遂げた、東アジアにおける愛国者のプロトタイプでもあります。彼は、勤皇の志士が愛読した幕末のベストセラー、浅見絅斎の『靖献遺言(せいけんいげん)』において、諸葛亮、陶淵明、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺らと共に忠節の士として名を連ね、その筆頭に挙げられています。 ちなみに、屈原の死を悼んだ当時の楚の民衆が始めた「ちまき(粽)」の風習は、2000年以上経過した現在においても、端午の節句にその名残を留めています。 参照:Wikipeida 屈原 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.30 18:40:34
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