耳(ミミ)とチャッピの布団

2015/09/11(金)05:37

男装の麗人

きのうの更新で清朝のことを書きましたが、この清朝第10代 粛親王の第14王女でとっても有名な人が居ます。 本名は愛新覺羅顯。 通名はよく知られている「川島芳子」です。 なぜ日本名かと云いますと、8歳のときに粛親王の顧問だった川島浪速の養女になったからです。 川島芳子と云うと、日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第1次上海事変を勃発させたといわれていますが、それを証言したのが極東軍事裁判で連合国側の証人として出廷した人間によるものなので、実際に諜報工作を行っていたのかは判然としません。 今となっては全て闇の中です。 芳子が17歳のとき自殺未遂事件を起こし、それがきっかけで断髪、男装するようになりました。 断髪した直後に「女を捨てる」という決意文書をしたためたことや、端正な顔立ち、清朝皇室出身という血筋と云ったことから高い関心を呼び、マスコミに広く取り上げられることとなりました。 まさに当時のアイドルだったようです。 大勢のファンが押し寄せたと云います。 その後、彼女をモデルにした小説「男装の麗人」が婦人公論から発表されると、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」としてマスコミの注目を益々浴びるようになるのです。 1933年(昭和8年)関東軍の熱河省進出のため熱河自警団が組織され、川島芳子が総司令に就任しました。 その前年に関東軍によって元首として清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言しました。 1934年には溥儀が皇帝として即位し満州国が帝政に移行した、そんな動乱の時だったのです。 この熱河自警団総司令就任が日本や満州国の新聞で大きくとりあげられ、芳子は「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれ、一躍マスコミの寵児となったのです。 ラジオ番組に出演、レコードの吹き込み、作詞までこなしています。 しかし満州国が形作られてくると、芳子は国内外の講演会などで満洲国での関東軍の振る舞いや、日本の対中国政策などを批判し始めました。 このため軍部や警察に監視されるようになっていたのです。 さらにこの頃の芳子はフカスミン(鎮痛薬)常習とヘロイン中毒に陥ってます。 しかし阿片には手を出していなかったらしい。 「ヨコちゃん」「お兄ちゃん」と呼び合うほど親しい間柄だった李香蘭が「芳子は阿片をやっていなかった」と証言しているのです。 フカスミンは当時の多くの軍人が常用し、依存するようになったものです。 終戦直前、満洲国皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと満洲国の首都 新京を放棄し、通化省臨江県大栗子に避難していましたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で自らの帝国の終焉を知ることとなります。 2日後に満洲国の廃止を決定。翌日には溥儀が退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡するのですね。 敗戦以降、各地に潜伏していた芳子は、1945年10月に中国国民党軍に逮捕されます。 漢奸(国賊、売国奴)として訴追され、1947年に死刑判決が下されました。 日本で助命嘆願運動を展開しましたが間に合わず、1948年ついに北平第一監獄の刑場で芳子は銃殺刑に処されたのです。 生前、芳子は李香蘭にこんな手紙を書いています。 「僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけで、ゴミのように捨てられる人間がここにいる」 芳子の遺骨は日本人僧侶の古川大航によって引き取られ、松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られました。 銃殺執行のとき獄衣のポケットに残されていた辞世の詩があります。 家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん 中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」 整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。 心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。 すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。 なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。 「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。 そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。

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