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テーマ:猫のいる生活(135905)
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人類史上初の8,000m 峰全14座を登頂したことで有名ですが、特筆すべきは全部、酸素ボンベなしで登り切ったことです。 あの8,000m をはるかに超えるエベレストでさえ、無酸素でそれも単独登頂をなしとげたのです。 彼こそ昨日ご紹介したヴァルテル・ボナッティの真の後継者と云えます。 単に困難な山に登るだけでなく、そこにアルピニズムの精神を吹き込んで、できるだけ補助手段を用いず、自分の手と足と肺だけで登り切ったのです。 それは1970年におこなわれたナンガ・パルバット(8,125m )のルパール壁初登攀を目指す遠征隊に参加したことで起こったのです。 この事件は映画「ヒマラヤ 運命の山」として詳しく述べられています。 登攀の最終段階で天候が悪化するという予報のため、ラインホルトのみが最終キャンプから単独アタックを敢行することになったのですが、ギュンターが独断で兄の後を追い、合流した2人はルパール壁の初登攀に成功したのです。 しかしラインホルトは単独登攀のつもりだったためザイルを持っていなくて、とうてい2人がルパール壁を降りることは困難。 なにより登頂したのはいいけれど、ギュンターは体力を使い果たして身動きとれません。 そのためルパール壁の反対側にある、比較的容易に下降できるディアミール壁からの下山を試みることになります。 下山は悲惨なものでした。 なにしろテントもシュラフも無い状態で、岩陰に身を寄せてビバークを続けながの下降となったのです。 このころベースキャンプの遠征隊一行はメスナー兄弟の生存を絶望視し、キャンプの撤収を開始していました。 ついに下山の途中でラインホルトはギュンターとはぐれてしまいます。 なんとか麓までたどり着いたラインホルトは偶然通りかかったパキスタン軍のジープに救われ、帰路についていた遠征隊に合流できたのです。 しかしギュンターはついに戻ってきませんでした。 この登山でラインホルトは重度の凍傷にかかり、足の指を6本切断することになります。 しかしラインホルトにとって何より痛みだったのは足の指ではなく、ギュンターを失ったことに他なりません。 ギュンターが行方不明になったことは、ラインホルトに重くのしかかってきました。 一部の登山関係者やマスコミから弟の遭難死の原因を作ったのではないかと非難されたのです。 「ラインホルトは、最初からナンガ・パルバートを横断する計画を持っていて、ギュンターを頂上直下に見捨てて計画を達成した。頂上直下で別働隊とコンタクトしたときは既にギュンターは死亡していた」と云うものです。 もちろん根も葉もないとこで、そもそも別働隊なんてどこにも居ません。 ナンガ・パルバットの遠征から35年、ラインホルトはギュンターの遺体を捜すために10回もナンガ・パルバットに戻っていきます。 そして2005年になって、ギュンターの遺体が発見されるのです。 発見されたのはラインホルトの主張通り、下降中のディアミール側山麓の氷河でした。 こうして長年かかってやっとラインホルトへの嫌疑は晴らされたのです。 ギュンターの遺体は家族の立会いの下、地元の村で火葬されました。 ラインホルトはヒマラヤ方式と呼ばれる固定ロープをなんども往復して大量の物資を荷揚げしてからアタックする方法をとらず、ヨーロッパ・アルプス登山のように自分が背負った荷物だけで一気に登り切ってしまうアルパインスタイルを8,000m 峰に持ち込んだ先駆者です。 1975年におこなわれたピーター・ハーベラーとのコンビでガッシャーブルムI峰(8,068m )登頂でこれをなしとげたのです。 また登山以外でもグリーンランド、南極大陸の走破。ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠の横断など、さまざまな冒険を成し遂げています。 今は彼の所有する13世紀頃に建てたられたお城で悠々自適の生活をしています。 中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK- 整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。 心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。 すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。 なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。 「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。 そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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