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テーマ:猫のいる生活(136006)
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ドイツを代表する文豪ゲーテは著書「ファウスト」第2部が完成した翌年、1832年3月22日にその生涯を終えてます。
「もっと光を!」が最後の言葉と伝えられている。 う~ん、サスガにゲーテ。なんと哲学的な言葉を残して逝ったのだろう。 この言葉を記述したのは主治医のフォーゲル博士です。 ところが、彼はこの言葉を直接耳にしたのではなく、第三者を介したまた聞きだったのです。 臨終の場に同席していた司法長官ミューラーの記録によると、「光が彼の最後の要求であった。死の30分前、もっと光が入り込むように窓のよろい戸をあげるよう命じた」とあります。 なんや普通の会話やないか!どこが名言なんや!(笑) 昔、100円札と云うものがあって、これの肖像は自由民権運動の主導者として有名な板垣退助でした。 板垣は、後藤象二郎と共に日本人としてはきわめて早い時期(1896年以前)にルイ・ヴィトンのトランクを所持していたことで知られています。 立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年~1883年の間に購入したとされているのです。 で、この板垣退助は岐阜で遊説中にテロリストに襲われ、左胸を刺されます。 この時、板垣は駆け寄った友人に「吾死スルトモ自由ハ死セン」と云い、これが後に「板垣死すとも自由は死せず」として伝えられ、板垣の名言として知られるようになりました。 多くの人は、この事件で板垣は死んだと誤解してますが、実はこのとき、板垣は軽傷で命に別状はありませんでした。 板垣を暗殺しようとした刺客は、愛知県士族小学校教員の相原という人物でした。 事件の際に短刀を携え板垣の胸部を目標とし、「将来ノ賊」と呼びかけ、兇行に及んだとあります。 生き延びた板垣は、その後、明治29年(1896年)に第二次伊藤博文内閣の内務大臣となり、明治31年(1898年)に、第一次大隈重信内閣の内務大臣となりました。 しかし大隈重信内閣は内紛によって瓦解し、以後政界を去ります。 晩年は社会事業家としての道を歩み、大正8年(1919年)、82歳でその生涯を終えています。 で、オモシロイのは「板垣死すとも自由は死せず」です。 この言葉が板垣の言葉だったのか怪しいのですな。 一説によると、事件のとき板垣は「あっと思うばかりで声も出なかった」と供述してるとありますし、別の記録では...笑ってしまいますよ。 「痛い!医者を呼んでくれ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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