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耳(ミミ)とチャッピの布団

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Mar 1, 2019
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あした義母の3回忌の法要があるので、これから新幹線で新横浜まで移動します。
息子があしたの法要終わったら車で大阪まで帰ってくると云うので、深夜になるけど、ミミちゃんの面倒みれるので、今回はミミちゃん病院預けはなし。
お家で1日半、ひとりでガマンしてもらうことに。

明後日には、朝の新幹線で私が帰ってきます。
ヨメは東京時代の友達と会うので、もう2泊、品プリで泊まります。
今、桐島洋子さんの著作「いくつになっても、旅する人は美しい」を読んでいます。
桐島洋子さんと云えば大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「淋しいアメリカ人」。
ずいぶん昔に読みました。
1937年(昭和12年)7月生まれですから、御年81歳。
私より13歳年上ですが、頭の回転は私の方が13歳年上かそれ以上劣ってる(笑)

高校卒業してスグに文藝春秋に入社。
20歳で雑誌「文春」の記者になりました。
そこからが波乱万丈の人生ですね。
19622年、ダイビングで知り合った26歳年上のアメリカ人退役海軍中佐と熱愛関係になります。
相手は婚姻中で妻があったのですが、桐島さんは妊娠し、1964年に「未婚の母」として、長女かれんを産みます。
これが後々、歌手で女優の桐島かれん。

妊娠中も編集の仕事をやめたくなかったので、いつも大きなブラウスを着て出勤、職場に内緒で、最後の2ヶ月は病気休暇をとって出産。
その後1週間で職場に復帰しました。
桐島かれんは、千葉の知り合いの未亡人に預けられたのです。
桐島さんは1965年、次女ノエルを身ごもり、やはり長期休暇を取って会社には内緒で産むつもりが、このときは業務多忙のため適わず。
しかたなく退社してフリー・ライターになります。

ところが「出産休暇」のために予定していた2ヶ月のヨーロッパ旅行にはお腹が大きいまま出かけます。
「船上出産は医療費がかからない」ことを知っていて、マルセイユから帰国の船に乗り、到着直前のクリスマスの朝にノエルを出産。
これがエッセイストの桐島ノエルで、かれんと同様に未亡人に預けられました。
1967年、件の愛人がベトナム行きの船の船長になったため同乗し、戦争下のベトナムに赴きます。
書類を偽造してプレス・パスを入手し、「従軍記者」として戦地を取材。

このときの記憶を桐島さんは、こう語っています。
「仲間が同じ塹壕で暮らしていて、若者が戦争が終わったら、こうしたいと熱烈な思いを語ってくれて、医者になって傷ついた子供達を治したいとか、土木技師になってベトナムの復興に尽くしたいとか、そういう若者がその翌日には何人かが、冷たい躯になってその辺に転がっていて、悲しくて涙も出なかった」。
桐島さんは生き残ったものの罪悪感を抱えながら生きてきたのです。

帰国後の1968年に、ベトナムでみごもっていた長男ローランドを出産。
これが写真家の桐島ローランド。
ローランドは愛育病院に託されました。
こうして見ると、桐島洋子と云うのはひとりとして自分の手で子育てせず、母親のかざかみにも置けないと思いますが、桐島さんの発想は普通の日本人ぢゃないから、凡人にははかりきれないのですね。
50歳代から人生の収穫の秋である「林住期」と宣言して、ノエルさんの住むカナダと日本を活発に行き来しています。

「林住期」とはヒンドゥー教社会において適用される理念的な人生区分のことです。
バラモン教法典においては、バラモン教徒が生涯のうちに経るべき段階として、次の4段階が設定されています。

・学生期:師のもとでヴェーダを学ぶ時期
・家住期:家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期
林住期:森林に隠棲して修行する時期
・遊行期:一定の住所をもたず乞食遊行する時期
上の画像は1970年に発表した処女作「渚と澪と舵-ふうてんママの手紙」です。
一緒に映っているのは3人の子供たち。
これの刊行を機に帰国。

そして1972年にアメリカ社会の深層を抉る衝撃の文明論「淋しいアメリカ人」を発表するのです。
ところが件のアメリカ人 愛人は、1968年になってやっと離婚したと思ったら別の女性と結婚。
そこで愛人との関係を清算するためも、ローランド出産後すぐ、桐島かれんのみを連れてアメリカへ旅立ちます。

かれんは東海岸の保育所に預け、単身アメリカを放浪しさまざまな職業につきます。
ロスアンゼルスで新しい恋人ができたため、子どもたちを呼び寄せ、"万が一の場合の子供たちへの遺書"的な意味もこめて書いたのが、前出の「破天荒なシングル・マザー」としての経験を書いた自伝的エッセイ「渚と澪と舵 ふうてんママの手紙」と云うワケです。
ところが、この本が日本で異常な評判。
まったく新しい女性像として、読者の心をワシ掴みしたのですね。

アメリカに送られてきたファンレターを読み、日本で文筆生活をして生きていこうと決意。
そう云う経緯で帰国しました。
そして問題作「淋しいアメリカ人」の刊行。
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞すると云うワケです。
これ以降、女性の生き方についての本などを多数執筆し、1976年の「聡明な女は料理がうまい」がベストセラーに。
その印税を使って一家でニューヨーク郊外の緑あふれる高級避暑地、イーストハンプトンの大きな借家で1年間暮らしました。
ここでの生活は著書「マザー・グースと三匹の子豚たち」に描かれています。

女性雑誌「クロワッサン」が、1978年から"新しい女性の生き方を追う雑誌"へと路線を変更すると、"カリスマ・シングル・マザー""生きかたの見本"として20代の女性読者たちの憧れの対象になるのです。
1982年、12歳年下の美術鑑定家で料理評論家の勝見洋一と結婚します。
このとき桐島さんは45歳。
結婚5年目から、署名捺印した離婚届をお互いが持ち、自由な関係にしておいたのもいかにも桐島さんらしい。

ところがサントリー学芸賞に勝見が受賞したことで桐島さんは批判の矢面に立ちます。
なぜなら、桐島さんはこのサントリー学芸賞社会・風俗部門の選考委員を務めていたからです。

結局、選考委員を辞任し、2002年には勝見とも離婚し友達関係に戻りました。
勝見は2014年に横浜の病院で病死しています。
しかし、こんな親子関係でギクシャクしないのかと思ったら、親子姉弟みんな仲いいのですね。
昨年発刊された「おとなスタイル」にこんな記事が載ってました。

桐島さんは云います「いい母親に見られたいとは思ったことがない。それよりも子どもたちにも、格好いいおとなに思われたかった」
すると桐島かれんさんも「確かに格好よかった。それに楽しそうに生きていた」と。

下の画像は「終戦直前まで住んでいた、第2の故郷 上海に、久しぶりに行ってみたい」と桐島さんが云いだして、桐島さん、かれんさん、ローランドさん3人の母、娘、息子の旅をしたときのこと。
桐島かれんさんが証言します「お母さまはいつもおしゃれをしていて、元町の輸入品を扱うスーパーマーケットへ買い物に行くときも、アオザイ姿だったりする。それが私は恥ずかしくて、少し離れて歩いたりしていた。友だちの家に遊びに行くと、エプロン姿のお母さんがジュースを出してくれたりするのよ。そういう"普通のお母さん"に憧れたの」
「私の友だちがうちに遊びに来ると、お母さまはいつも家で原稿を書いていて。誰かが「おばさ~ん、喉渇いた」って言うと」「そこに水道があるから、自分で勝手に飲みなさい」(笑)

「それと、おばさんではなくて、洋子さんとお呼びなさい」
「友だちはみんな、ポカンとしてた」

「その頃、私たちが住んでいた横浜のマンションは、部屋の入り口に古い革のスーツケースがあって、その上にお母さまがベトナム戦争に従軍記者として同行したときに被った、迷彩色のヘルメットがドンと置いてあった。壁には大きな世界地図。家具は茶色い船家具で統一されていて、アフリカの楽器とか、世界で集めた調度品や絵画があった。ピアノの上にはインドのミラーワークの織物がかかってたわよね。当時、友だちの家のピアノにはたいてい、白いレースがかかっていたから、我が家は変だなって思っていた」
さて、私がいま読んでる「いくつになっても、旅する人は美しい」。
桐島さんの放浪の発端となったベトナムについても書いておられます。

久方ぶりに訪れたときは「マジェスティックホテル」に泊まられたそうだ。
昔のことを思い出してでしょうね。
以前は外国人専用の高級ホテルでしたから。

ベトナム戦争当時、桐島さんはこのホテルを利用しようとして、ベトナム人と間違われ、ドアマンにけんもほろろに追い返された経験があるそうです。
しかしこのホテルも、今はもう、年老いて、いささかうらぶれた感じがしたらしい。
私にも同様のホテルがあって、それはラオスの首都ビエンチャンの「アヌーホテル」です。
まだ、ラオスが共産化する前、いったい何度行ったでしょう。

当時からアヌーホテルはちょっといかがわしい感じのするホテルでしたが、それでもビエンチャンでは第一級のホテルだった。
このころはメコン川のスグ近くに建っており、メコンの夕日がまぶしかった。
私の青春そのもののホテルでした。

検索すると、いまもアヌーホテルは存在してますが、ほとんど顧みられないホテルに成り下がってますね。
でも、もう少し寿命が続いて、機会があれば一度は再訪してみたい。
なかなか思い立てないですけどね。
なんせラオスは観光資源皆無のところですから。
さて、桐島さんのベトナム話ですが、初めてサイゴン(ホーチミン)で食べたフランス料理のおいしさは衝撃的だったと述べられています。
なんせ、もともとフランス領でしたからね。

私もビエンチャンに行ったときは、どんな屋台に毛が生えたようなレストランでも、席につくと自家製ワインがスッと出てきたのには驚きました。
ラオスもまたフランス領だったところです。

桐島さんは最近になって、ベトナム戦争以前に近いフレンチのお店をホーチミンでみつけたらしい。
「ボルドー」
フランス人の男性カップルが、フランスで修行中のベトナム人をスカウトして開店したそうです。

ネットで「Bordeaux France Restaurant Ho Chi Minh」と検索するとでてきましたね。
なかなかに小粋な雰囲気のお店です。


桐島さんが従軍記者だったときは、おびただしい死を見送った戦場から街に戻るなり、血と汗にまみれた軍服を引きむしるように脱ぎ捨ててアオザイに着替えたと云います。
川風を浴びて歩きに歩いては、悲しい記憶を少しでも吹き飛ばそうとしていたのです。





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Last updated  Mar 1, 2019 04:56:08 AM
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