耳(ミミ)とチャッピの布団

2019/03/20(水)05:36

ブライアン・ジョーンズ

「ウェールズ系日本人」と自称している冒険家で小説家のC・W・ニコルはご存じですよね。 彼とロックバンド「ザ・ローリング・ストーンズ」の元ギタリスト兼リーダー、ブライアン・ジョーンズとは旧知の仲だったのです。 ちょっと意外でしょ。 ブライアン・ジョーンズと云えば、楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたと云う天才的な反面をもつのと対照に、16歳のとき14歳の少女を妊娠させたのをかわきりに、数々の女性遍歴、そして薬物中毒。 なにより1969年、ストーンズを脱退した直後、自宅のプールで謎の死をとげたことで有名です。 ブライアンの死は検視により、「アルコールとドラッグの影響による事故」と結論付けられてます。 このとき彼は27歳の若さ。 で、C・W・ニコルはブライアンの学校の先輩にあたるのです。 同じウェールズ人同士ということもあって目をかけていましたが、ブライアンが少女を妊娠させた事に憤慨し、それ以降は音信不通にしていました。 それでもニコルはブライアンの行く末を案じており、彼がストーンズとして活動している事を知ってからもそれは変わらなかったのです。 ニコルがブライアンの死を知ったのは、エチオピアで自然保護官をしている時でした。 パトロールの途中で立ち寄ったパブで、観光客からブライアンの死を聞かされ、エチオピアのテキーラ"アラーキ"を呷りながら涙を流したと云います。 私はビートルズ全盛のころ、ビートルズよりもストーンズの方が好きでした。 とにかく問題児でしたな、ストーンズは。 昔、アメリカのCBSで放送されていたバラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー」と云うとんでもない大ヒット番組があったのですが、1964年にストーンズが初出演したときは、髪型がキタナイとか破廉恥なタイトルの曲を演奏するなどホスト役のエド・サリヴァンは辟易して「もう金輪際、こいつらをこのテレビには出しません」というコメントを述べたと云います。 しかし、エド・サリヴァン・ショーに出演した翌日、ストーンズはカリフォルニアに飛び、サクラメントでライヴを行ったのですが全席完売。 客席からは驚くほどの大歓声が浴びせかけられたのです。 エド・サリヴァンは「子供を持つ親御さんから、ローリング・ストーンズについての苦情が何百件も来た。けれど、ストーンズの演奏がすごく良かったと言う若者からのメッセージは数千件も来た」と述べています。 結局、サリヴァンは前言を翻して、この後ストーンズに5回も出演依頼しています。 もともとストーンズのキース・リチャーズとミック・ジャガーは幼なじみで、双方の家が引っ越すまでダートフォードのウェントワース・プライマリースクールでの級友でもありました。 1960年、ふたりは偶然にダートフォード駅で再会します。 ミックが持っていたチャック・ベリーとマディ・ウォーターズのレコードで、お互いの興味が共通なのを知り、友情が復活。 ディック・テイラーを加えてバンド「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」を結成。 3人はアーリング・ジャズクラブでアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズと出会うのです。 ブライアン・ジョーンズのスライドギターを目の当たりにして衝撃を受ける3人。 ブルース・インコーポレイテッドには、後にストーンズのメンバーとなるイアン・スチュワートとチャーリー・ワッツも参加していました。 イアン・スチュワートが練習場所を見つけ、ブライアンと共に加入し、バンドはシカゴ・ブルースを演奏するようになりました。 名前も決定していないバンドはミック、ブライアン、イアンに加え、ミックが強要して加えたキースと共に最初のリハーサルを行ったのです。 キース曰く、ブライアンがバンド名を決定したという。 1962年のこと。 「ジャズ・ニュース」紙との電話インタビューでバンドの名前を尋ねられたブライアンは、床にあったマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」をバンド名にしたのです。 下の動画はザ・ローリング・ストーンズと"20世紀ブルースの巨人"マディ・ウォーターズがひとつのステージに立った歴史的ライヴの模様です。 1981年11月22日。 ストーンズの北米ツアー中、シカゴでの3日連続公演を翌日に控えて、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロニー・ウッドがチェッカーボード・ラウンジで行われたマディのライヴに飛び入りしたときのものです。 1962年7月、ストーンズはマーキー・クラブに腰を落ち着けて活動を開始します。 この頃より、ブライアン、ミック、キースの3人は、チェルシーのアパートで共同生活を始めたのです。 12月、空席だったベーシストの座にビル・ワイマンが就き、翌63年には複数のバンドを掛け持ちしていたチャーリー・ワッツの引き抜きに成功。 同年6月にストーンズはレコード・デビューを果たします。 ブライアンは紛れもなくローリング・ストーンズの創設者だったのですね。 バンド結成当初、主導権は完全にブライアン・ジョーンズが握っていました。 当時のブライアンの様子をミックは「奴はバンドの運営と個性、バンドのあるべき姿に取り憑かれてた。俺には異常にすら見えたよ」と表現しています。 ところがブライアンは、体調不良などでギグ(クラブなどで一度だけ演奏すること GIG)に穴を開けたり、彼女とのデートを優先して仕事をすっぽかすなど、およそリーダーとしてふさわしくない行動が目立つようになってきます。 そのためバンドの主導権は間もなくミックとマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムに移ってしまうのです。 ジャガー/リチャーズのコンビがオリジナル曲の製作を始め、オールダムがそれを全面的に推し進めるようになると、作曲能力の乏しいブライアンは次第にバンド内での存在感を失っていきます。 1964年のアメリカツアーから麻薬がバンド内に入り込むようになると、ブライアンは完全にのめり込むようになります。 バンドの成功と裏腹にブライアンの焦燥感は募り、以後ますます麻薬に溺れるようになっていくのです。 1967年、ついに大麻所持の容疑で逮捕されます。 9ヶ月の禁固刑が云い渡されますが、上告裁判で1,000ポンド(約14万8千円)の罰金と3年間の保護観察処分に減刑され、収監は免れました。 麻薬に溺れてたのはブライアンだけではありません。 ブライアンが逮捕された同年にはミックとキースも同じく麻薬所持の容疑で起訴されており、第1審で禁固刑を云い渡されます。 しかし上訴審で、ミックは12ヶ月の条件付で釈放。 キースは無罪となっています。 ブライアン自身も薬物依存を克服しようとしたこともあったみたいで、逮捕から判決までの間に1度麻薬更生施設に入っています。 しかし翌1968年に大麻所持の現行犯で再び逮捕されました。 裁判で無実を主張しますが、保護観察期間中の逮捕という事もあり厳刑が予想されました。 結局、罰金刑が下され、またも収監を免れたのです。 ミックによれば、この頃になるとブライアンはギターを持っていることさえできなくなっていたと云います。。 脱退直前のブライアンの様子は、ジャン=リュック・ゴダール監督のドキュメンタリー作品「ワン・プラス・ワン(アメリカでは「悪魔を憐れむ歌」)」でのレコーディング風景の中で見られますが、以前のように様々な楽器を自由自在、縦横無尽に生き生きと演奏する姿はもはや見られず、虚ろな顔をしていて、まるで魂の抜け殻のようになっていました。 ミックは「マジで100%打ち込んでるブライアンを見たのは、「ノー・エクスペクテーションズ」(1968年)が最後だった」と振り返っています。 この頃には既にバンド内でブライアンを排除しようとする動きが出始めていました。 ストーンズのメンバーとしての存在感が決定的に薄くなったブライアンは、サセックス州ハートフィールド近くにあるコッチフォード・ファームを購入します。 この家は「くまのプーさん」の作者A・A・ミルンがかつて住んでいた家です。 1969年になると、ブライアンはもはやスタジオに現れる事すらほとんどなくなっていました。 同年、ミックはキース、チャーリーを伴い、ブライアンのもとを訪れ、ストーンズから脱退してもらうよう頼みました。 ブライアンは10万ポンドの一時金と、ストーンズが存続する限り年2万ポンドを受け取るという提案を呑み、脱退に同意します。 記者会見でブライアンは「ストーンズの音楽は俺の好みではなくなってしまった。俺は自分に合った音楽をやっていきたい」と語ります。 脱退から約1ヶ月後の午前0時ごろ、ブライアンがコッチフォード・ファームのプールの底に沈んでいるのが発見されます。 スウェーデン人のガールフレンド、アンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼びましたが、医師が到着した時ブライアンは既に死亡していました。 ブライアンに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていたハイドパーク・フリーコンサートは、急遽ブライアンの追悼コンサートとして行われることになりました。 ブライアンは故郷のチェルトナムに埋葬されました。 ストーンズのメンバーで葬儀に参列したのはビルとチャーリーのみでした。

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