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テーマ:猫のいる生活(135969)
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オリンパス光学の常務に米谷美久と云う方がおられました。
オリンパスの代名詞、「オリンパス・ペン」を開発された方です。 この方、とにかくカメラの機構に強く、早稲田大学在学中に早くもカメラの内部構造に関する特許を4件も取得したほど。 今の方には馴染みないですが、ハーフサイズカメラと云うのは、35mmフィルムの1コマを半分ずつ使うカメラで、と~ぜん撮影枚数は倍になりますが、それだけフイルムのサイズも小さくなるので、大きな引き延ばしには弱い。 でも、家庭で使う分にはこの方が取り回しがよかったのですね。 で、このフイルムをハーフサイズに分割して使うアイディア、米谷美久が中学生時代に愛用していたカメラに秘密があります。 「ミゼットフィルム」。 ミゼットフィルムと云うのは、35mm フイルムよりずっと小さい14mm × 14mm しかありません。 このフイルムは完全に日本独特の規格です。 が、後には海外にも輸出されました。 このサイズで四切まで引き伸ばせたのですね。 「乾板」などと違い軸に巻きつけた帯状の写真フィルムをロールフィルムと云い、現在でもつかわれてる普通の35mm フイルムなんかがロールフィルムです。 このロールフィルムにはロールフィルム番号と云うものがあって、例えばハッセルブラッドなんかで使用してた中判フイルムの「ブローニー」は「120」、35mm フイルムは「126」と云ったように。 ところが、このロールフィルム番号はアメリカのコダック社が制定してるもので、コダックはミゼットフィルムを製造販売しなかったので、ミゼットフィルムにはロールフィルム番号と云うものがなかったのです。 「ミゼットフィルム」を開発したのは「美篶商会」で、1937年(昭和12年)に製造販売を開始した写真機「ミゼット」とともに発表した規格です。 1937年に販売開始した「ミゼット」は通称「ミゼットジローナ1」と呼ばれていました。 美篶商会は1939年には「ニューミゼット」(通称「ミゼットジローナ1a」「ミゼットジローナ1b」)、1943年には「ニューミゼットII型」(通称「ミゼットジローナ2」)、1951年には「ニューミゼットIII型」(通称「ミゼットジローナ2a」)と矢継ぎ早にミゼットフィルム使用のカメラを発売しました。 このミゼットのレンズは固定焦点で絞りも固定です。 つまり自分でボケ味のある写真を撮ろうとしても撮れない。 ベタッと平板な写真になるワケです。 豆カメラブームに火をつけ、しかも富士フイルムの四大特約店の1つであった美篶商会でしたが、後半はどんどん売上が落ち込み、かつ富士フイルムが2004年から特約店制度廃止を決めたことを受け、同年自主解散をしてしまいました。 ミゼットと云えば、昔は誰もが一度は耳にした事があるほど有名で、豆カメラの代名詞でした。 発売された機種は前述のように全4モデルで、そのうち3モデルが戦前に発売されています。 ミゼットと同様に豆カメラの代名詞の1つ、三和商会のマイクロは、全8モデルのうち6モデルが戦後の発売で、「戦前のミゼット、戦後のマイクロ」と云った構図になっています。 三和商会の「マイクロ」1号機は1939年(昭和14年)、つまり第二次世界大戦が勃発した年の発売です。 最終型の「IIIA型」が登場したのが1953年(昭和28年)。 1951年の日米講和条約締結から3年しか経っていません。 もともと30年代の日本は空前のカメラブームでした。 当時、日本に精密機器を作るだけの充分な技術力はなく、ライカやツァイス・イコン、コンタックス、ローライなどの外国製カメラが輸入されていたのです。 ところが1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発。 日本は戦時体制となり、経済統制が進められてカメラの輸入が制限されます。 この状況は国産メーカーにとっては市場拡大の好機となり、国内需要を満たすために国産カメラが増産されたのです。 ところが第二次世界大戦に突入後は、金属材料が統制となり、カメラメーカーも軍需産業に指定されてカメラの製造どころではなくなりました。 そして1945年(昭和20年)の終戦。 この終戦が豆カメラブームに火をつけたと云っていいでしょう。 国内需要からシフトして、進駐軍向けのお土産やアメリカへの輸出が生産を支えていたのです。 そのため、豆カメラブームのピークは終戦後4~5年の間に集中しています。 豆カメラが発売された当初は、ほとんどオモチャ同然なものでありながら、小型カメラとしてちゃんと撮影もできることで爆発的に売れましたが、だんだんちゃんとしたカメラが欲しいと云うニーズに押されて、当時高級品だったライカ判カメラを感じさせる軍艦部を持ったスタイルへと変遷していきます。 しかし元々、小さすぎて扱いにくく機能的に無理がある豆カメラ、そこに性能や使い勝手を求め過ぎてしまったことが、衰退を招いた原因となってしまったようです。 そのほとんどは今は跡形も有りません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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