耳(ミミ)とチャッピの布団

2019/08/16(金)06:26

検事フリッツ・バウアー

きょうは観ていて、ぜんぜん楽しくない映画のご紹介です。 楽しくない映画?ぢゃイラナイ。 ちょっと待ってください。 楽しくはないけど、人間にとってとても大切な作品なんです。 みなさんはドイツ人のアイヒマンと云う人物をご存じでしょうか? 名前ぐらいは聞いたことある人多いでしょうね。 第2次大戦中、ナチスの親衛隊将校でゲシュタポのユダヤ人移送局長官だった男。 彼によって実に数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送(つまりガス室送り)した張本人です。 第2次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されましたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功し、捕虜収容所から脱出しました。 「オデッサ(ODESSA)」と云う闇の組織をご存じですか? この組織は旧ナチ党員の逃亡支援のために結成された組織です。 アイヒマンはオデッサの助けを借りて、リカルド・クレメント名義で国際赤十字委員会から渡航証の発給を受け、1950年に当時親ドイツのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていたアルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸してしまったのです。 それからの足跡は杳として知れませんでした。 アイヒマンはアルゼンチンに渡ってから、約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送っていたのです。 1958年にイスラエル諜報特務庁(モサド)はアイヒマンがアルゼンチンに潜伏していると云う情報を得ます。 ブエノスアイレスに工作員が派遣されましたが、アイヒマンの消息をつかむことは容易ではありませんでした。 しかし、アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女にたびたび父親の素性について話していたことから、モサドは息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつかんだのです。 2年にわたる入念な作業のすえ、モサドはついにアイヒマンを見つけ出しました。 こうして、アイヒマンは1960年にアルゼンチンからモサドによって拉致されて、イスラエルに連れて行かれます。 アイヒマンは、翌年に「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」「違法組織に所属していた犯罪」など15の犯罪で起訴され、イスラエルで裁判。 その年のうちに有罪、死刑判決が下され、1962に絞首刑に処されました。 イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑です。 遺体は焼却され、遺灰は地中海に撒かれました。 このときの実際の裁判の様子が記録フイルムで残ってます。 Woman's Evidence At Eichmann Trial 1961 このアイヒマンがアルゼンチンに潜伏していると云う情報をモサドに流したのが、これからご紹介する映画「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」の主役、ドイツ・ヘッセン州の検事長フリッツ・バウアーです。 この映画を観ると、当時のドイツが、同じ敗戦国の日本とは全く違う政治環境だったことが分かります。 日本の場合は極東軍事裁判で戦犯と呼ばれる人たちの刑が確定して、A級戦犯はほとんどが死刑か終身刑に処されてます。 ちなみに、A級戦犯と云うのは(A)平和に対する罪(B)通例の戦争犯罪(C)人道に対する罪の3つの罪が条例に記載されていたのですが、英語原文でこれらがabc順になっているため、項目(A)の平和に対する罪で訴追された者を「A級戦犯」と呼んだのです。 対するドイツ(西ドイツ)は違っていました。 それにはこの時代の歴史的背景を知っておく必要があります。 アイヒマンの裁判がとりおこなわれた1961年と云うのは、悪名高い「ベルリンの壁」が建設された年です。 同年にソ連ではガガーリンが世界初の有人宇宙飛行をして、米ソの宇宙競走に楔をうった年でもあります。 翌年にはキューバの核ミサイル基地建設で、米ソが激しく対立し、全面核戦争寸前まで達した危機的な状況が起こりました。 時のアメリカ大統領はJ・F・ケネディ、対するソ連はフルシチョフ首相のときです。 要するにアメリカとしては、ソ連の共産勢力拡大がイチバンの懸念で、そのためにドイツに対する関心はとても低かったのです。 そんな背景下、西ドイツでは、日本で云うところのA級戦犯クラスが大勢生き延びるどころか、政治の中枢部にまで入り込んでいました。 ときの西ドイツ首相アデナウアーですらグレーに近く、彼の閣僚にはナチスの幹部だった男まで入り込んでいます。 1952年には、ミュンヘン警察署でアデナウアー宛の小包が爆発し、警察官1人が死亡しました。 この犯行にはイスラエルのユダヤ人テロ組織イルグンやその指導者メナヘム・ベギン(のちの首相)の関与が明らかとなりました。 しかし、ナチによるホロコーストの記憶も生々しい当時、両国の間で外交問題に発展することを避けるため、事件背景は発表はされず容疑者はイスラエルに国外追放された経緯があります。 ことさらさようにアデナウアー首相は「親ナチ派」と見られていました。 なので西ドイツの首都ボンでは裁判所までが親ナチ派の巣窟だったのです。 こうした背景が分かってないと、この映画は違った理解をしてしまいます。 映画の宣伝では「ナチスの最重要戦犯アドルフ・アイヒマン逮捕の影の功労者であるドイツ人検事フリッツ・バウアーの執念と苦悩」なんて書かれてますが、実際にはフリッツ・バウアーの目指したことはことごとく打ち砕かれ、失敗に等しい幕切れとなります。 監督はタリアのキエーリに生れたラース・クラウメ、主役のフリッツ・バウアーを演じたのはブルクハルト・クラウスナーと云うドイツの俳優です。 2015年のドイツ映画です。 日本では終戦になって、もう一度軍政にもどりたいなんて人はごく僅かだったでしょう。 ところが、ドイツでは終戦後も親ナチや戦時中にナチに加担した人が政界の中枢に大勢いたんですね。 そして検事フリッツ・バウアーは、ユダヤ系のドイツ人でした。 つまり、ドイツ国内でフリッツ・バウアーはとても脆弱な立場にいたことになります。 実際、バウアーのもとには毎日のように脅迫電話や脅迫の手紙がまいこんできました。 ナチス戦犯の告発に執念を燃やしていたバウアーを、単に個人的な恨みでそうしているのだと。 そんなバウアーの味方は唯一、州知事だけでした。 しかし、バウワーは気づきませんでしたが、アイヒマンが捕らえられて、裁判で証言すると州知事もヤバイことに。 彼もまた戦時中にナチに加担してた一人だったのです。 映画の後半で、アイヒマンが捕らえられたのを知ると、州知事はアデナウアーに辞任を申し出ます。 バウアーにとって重要なのは「犯罪人という人物」ではなく、むしろ「法の侵害としての犯罪」と「人間的な法秩序の再建」のほうでした。 彼は、ドイツ国民には「国際法の訓戒」が必要であり、その限りにおいて戦争犯罪人に対する訴訟は道標になりうると説いたのです。 訴訟は「何があったのかについて、ドイツ人の目を開かせ、そしていかに行動しなければならないかについて、ドイツ人の心に刻み込むことができるし、またそういうものでなければならない。ドイツ国民が自ら清算するというのなら、それが最良の方法」だと。 物語は、彼のもとに、逃亡中のナチスの大物戦犯アドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという重大な情報を、ブエノスアイレス在住のユダヤ人亡命者から耳にするところから始まります。 バウアーはアイヒマンの罪をドイツの法廷で裁くため、部下のカールと共に証拠固めと潜伏場所の特定に奔走します。 しかし、国内に巣食う親ナチやナチス残党による妨害、圧力にさらされ、孤立無援の苦闘を強いられるのです。 そんな状況を打開するためにバウアーが考えついたのは、この情報をモサドに提供するというものでした。 また、反共やかましいご時世に、東ドイツの捜査当局とも連絡をとって協力要請してます。 これらの行為は国家反逆罪に問われかねない危険な行動です。 バウアーがモサドとコンタクトをとったのは別の理由もあります。 アルゼンチンにアイヒマンの身柄拘束を依頼することは端から考えていませんでした。 親ドイツのアルゼンチンがアイヒマンの身柄引き渡しに応ずるどころか、逃がしてしまうのは目に見えていたからです。 そしてドイツ政府にアイヒマン身柄引き渡しを外交ルートで交渉するように云っても、親ナチや旧ナチの残党だらけの政府がそれを受けるハズもない。 と、なると、荒っぽい手段で誘拐してくるモサド以外考えられなかったのですね。 しかし、よく映画にでてくるモサドのように、やみくもに拉致・誘拐なんて実際はしてくれませんでした。 先ず、アイヒマン本人だと云う証拠と住居の特定がないと動かないと。 彼らもまた建国まもないイスラエルが国際問題をかかえるのを危惧していたのです。 バウアーは、アイヒマンの拉致まではモサドに依頼しても、裁判はドイツでやりたかったのです。 イスラエルでやったのでは、国際世論は単なる復讐としか受け取らない。 ドイツ、それも政府の息のかからない、自分の州でやりたかった。 そうすることで、ドイツ国民が自らドイツ人を裁くと云う「自浄作用」を世間に示すことができると。 そのためにイスラエルと引き渡しの約束も取り付けていたのですが、ドイツ政府が引き渡しを求めなかったために、結局アイヒマンはイスラエルで裁かれることになってしまったのです。 バウアーは常に監視されていました。 ドイツ政府によってです。 その情報をバウアーにもたらしたのはモサドです。 彼らはバウアーを監視している人物をまた監視していたのです。 そして、バウワーは見つけます。 アイヒマンの裁判を傍聴するよう命令した、腹心の部下アンガーマンの部屋でバウアーの行動一部始終を記録したノートを。 つまり腹心の部下でさえ、政府の密偵だったのです。 結局、望むところと違って、アイヒマンはイスラエルで裁判され、アイヒマンの証言で名前のあがったドイツ人みんなは、親ナチ派の総本山、ボンの裁判所で裁かれることになりバウワーの目論見はことごとく破れて物語は終わります。 我々は、ドイツは瓦礫の山と化しているが、それなりの取り柄があると考えた。 我々は、瓦礫を取り除いた後で、未来という新しい街を築く。 明るく、広く、そして人間に優しい街を...その当時、我々はそのようなことを考えていた。 全てが新しく、心の広いものになるはずであった。 しかし、その後別の人々がやってきた。彼らは次のように述べた「しかし、瓦礫の下にある地下水脈は、今なお健全ではないか!」。 瓦礫は、地下水脈が求めていた通りに建て直されてしまった。 その後、バウワーは1963年に「フランクフルト・アウシュビッツ裁判」にこぎつけます。 ホロコーストに関わった収容所の幹部ロベルト・ムルカらをドイツ人自身によって裁いた裁判です。 起訴の発端は1959年に届いた1通の封書でした。 差出人はフランクフルター・ルンドシャウ紙の記者トーマス・グニールカ。 中には偶然見つけたという、1人のユダヤ人生還者がブレスラウ(現ポーランド)裁判所から「お土産」に持ち帰った書類が入っていました。 アウシュヴィッツ強制収容所の「殺人記録」だったのです。 バウアーはこの証拠書類を連邦最高裁判所に提出し、裁判をバウワーの本拠地ヘッセン州で開く許可を得たのです。 これはニュルンベルク裁判において裁かれなかった、ナチスの過ちに対する責任を問う裁判となりました。 このときのドイツ国民感情は...世論調査では54%の国民が裁判に反対。新聞には「もうたくさんだ」「異常な状況下での行為に罪を問うのか」などの投書が並んだのです。 それでもバウアーは裁判を強行しました。 現在、歴史家はこの裁判を社会の「ターニング・ポイント」だったと評価しています。 匿名だった民族虐殺の実行犯に初めて名前と顔がつき、この時から過去の検証が始まったのです。 ドイツ人の歴史認識を変えたのは、勇気ある検事、裁判官、そして証言者たちだったと。 極東軍事裁判でも、A級戦犯に該当しない人でも大勢A級戦犯で裁かれたとか。 やはり、戦勝国主導の裁判ではなく、自国民が裁く裁判でないと。 それには「自浄作用」能力が必須ですね。 なかなか、それを求めるのは難しいけど... 同じことは、どの戦争でも云えます。 「レバノン侵攻のことは何もかも、みんなで忘却の穴倉に押し込めてしまった。 約700人のイスラエル兵士が戦死したのに対して、敵の戦死者は数千にのぼった。 また1万人以上の市民が犠牲になったといわれる。 この悪事をしかけた側から見ても"罪のない人"が、である」 忘れられかけたホロコーストの闇を徹底的に暴いた国が、今度はジェノサイドを忘却する。 そう云うものなのです。人間は。

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