耳(ミミ)とチャッピの布団

2019/10/28(月)06:18

三途の川

よく臨死体験をした人が「三途の川を見た」などと云いますね。 川の向こうから手招きされたけど、後ろから「その川を渡ってはいけない」と呼び止められたとか。 そして気がついたら病室だったなんて云う人も。 私なぞ歳が歳だし、身体中病気持ちですから、もう三途の川の岸辺に立っているようなものです(笑) しかし、私は信仰がなにもないので、もちろん三途の川の存在なんて信じていないし、仏教信仰している現代人の大多数も信じてないでしょう。 そもそも三途の川は仏典に由来している「この世とあの世の間を流れている川」。 この川を越えると、もう戻ってこれない。 つまり死後の世界に行くと云うことです。 三途の川が唱えられたのは、私たち日本人が信仰する大乗仏教の経典のひとつ「金光明経」において「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」と云うくだりです。 「地獄餓鬼畜生」と云うのは「地獄」「餓鬼」「畜生」を三悪道として、三途の川になったのですね。 群馬県は国道254号沿い、かつての中山道の脇往還沿いに一級河川で「三途川(三途の川)」があります。 なので、川をまたいでるのも「三途橋」。 橋のたもとに「姥子堂」と云うお堂が建っています。 このお堂には「奪衣婆」という老婆の鬼の像が祀られています。 もともと奪衣婆には懸衣翁と云うオジンのパートナーがいて、ふたりとも十王(地獄において亡者の審判を行う裁判官的な10人の尊格)の配下なんですな。 この奪衣婆が、衣類を剥ぎ取り懸衣翁に渡すと、懸衣翁は衣服を樹の枝にかけて亡者の罪の重さを計り、結果を閻魔大王に送る仕事をしていたワケです。 ところが、なぜか奪衣婆だけが江戸時代末期に民衆信仰の対象となって、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりしたのです。 姥子堂の奪衣婆は奈良時代の僧である行基が奪衣婆像を彫り、川の名を三途川と唱え、村人が堂を建てて像を祀ったとあります。 三途の川には「渡し舟」もつきものです。 三途の川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗がずっと続いていました。 現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品の制限強まっているので、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多いですね。 ところが、土佐光信の「十王図」にある三途川の画には、善人は川の上の「橋」を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれるものとして描かれています。 青森県の「恐山」麓にある宇曽利山湖が流れている三途川にも橋がかかっています。 これは平安時代までは「橋を渡る」だったのです。 が、平安末期に橋を渡るという考え方が消え、その後は渡し船によって渡河するという考え方に変形したのですね。 しかし、土佐光信は室町時代後期の絵かきなのに、橋を渡る? 三途の川にはもうひとつポイントがありますね。 三途の川は「賽の河原」とも呼ばれ、そこの川岸にあるのが「積石塚」。 もともと京都の鴨川と桂川の合流する「佐比」の河原に由来してると云われてます。 淳和天皇が現在の阪急「西院」駅辺りに離宮を造営し、皇居から見て西に当たるため「西院」と呼ばれるようになったところです。 知らないで京都観光してる人も多いでしょうね。 佐比の河原周辺は庶民の葬送の地と定められていましたが、後に七条に移されました。 ところが15歳以下の小児は引き続き左比の河原に葬ることが定められていたのです。 子供の葬儀は行わず、葬地に捨てることになっていたのですが、そうはいっても愛しい我が子をこの河原に埋めるのは忍びなく、河原の石を重ねて塔婆になぞらえたのですね。 そこから「賽の河原」は親に先立って亡くなった子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされているとされたのです。 子供たちが賽の河原で、供養のために石積みの塔を完成させようとしますが、完成する前に鬼が来て塔を破壊します。 なんど築いてもその繰り返しになってしまう。 しかし子供たちは、最後に地蔵菩薩によって救済されるとされています。 この伝承から、石が多い湖畔や河原、海蝕洞内のある海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像が造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所が日本津々浦々にあるのですね。 ところで三途の川は日本だけの考え方かと思ったら、世界中に同じ考え方が存在します。 仏教発祥の地、古代インドには「ヴァイタラニー川」という急流があります。 死んだ人間の霊魂はヴァイタラニー川を渡り死者の国へと赴くのです。 川の水は熱くて臭く、膿や血、髪の毛や骨が流れています。 これが地獄の入り口です。 そしてカミソリの歯のように細い橋がかかっていていると云われています。 そこから裁きの宮殿へと進む。 閻魔さまに相当する「ヤマ」は、記録者チットラグプタから裁く人間の生前の行いを洗いざらい聞いたうえで、死者の魂にふさわしい行き先を告げるのです。 ギリシア人は、現世と来世の間に、「ステュクス」と云う川があるとしています。 地下の冥界を七重に取り巻いて流れ、生者の領域と死者の領域とを峻別している川です。 「アキレス腱」で有名なアキレスは、このステュクス川で足首を握られて水に浸され、足首以外が不死身になったのです。 しかし足首だけが川の水につからなかったので、アキレス腱が弱点となってしまったと云われています。 ステュクス川を渡るには、カロンという渡し守に1オロボスの渡し賃を払わなければなりません。 そのためギリシア人は、死んだ人の口に1オロボスのお金を入れる風習があるのです。 これはギリシア文化の影響を受けたローマでもほとんど同じです。 古代ペルシアのゾロアスター教では、この世から浄土の入り口まで「チンバット橋」といわれる長い橋がかかっています。 それは渡る人の罪の重さによって幅が変わる橋で、善人が通るときは幅は広く、ゆったりと楽に渡れます。 しかし悪人が通るときは糸のように細くなり、川の下の地獄に堕ちるのです。 では、三途の川の渡り方を私も含めて生きているみなさんとおさらいしておきましょう(笑) 三途の川はとても泳いで渡れません。 なにせ川幅は40由旬、400km 以上という向こう岸の見えない大河なんです。 ちょうど東京と神戸間くらいの幅があります。 三途の川には、3通りの渡る道があります。 上流は「清水瀬」といって、膝下くらいの深さで、罪の少ない人が渡れます。 中流には宝石でできた橋が架かっていて、善人は橋を渡れます。 下流は「強深瀬」といわれる激流です。 水面に顔を出すと鬼から矢を射られます。 水の中は大きな石が流れる濁流で、罪人の体は粉々になり、川の底には毒蛇がいて喰われます。 なのに死んでもすぐに生き返って400km を泳ぎ続けるのです。 しかし、室町以降になると、この強深瀬に渡し船がいて、六文の渡し賃で渡してくれるので、令和に生きる私たちは前述したように紙に印刷した六文銭を持っていれば、例え生前に悪行ばかり積んだ人でも安心です。 とは云え、ようやく対岸にたどり着くと、「衣領樹」と云う大きな樹があって、例の「脱衣婆」と「懸衣翁」がいて、衣服をはぎとられ、木の枝にかけられます。 罪の重さによって、枝がしなりますのでヤバイですね。 ここで素っ裸にされて死出の旅路を続け、閻魔大王の元に行くのです。 裁判で、死ぬまでに犯した罪によって行く先が決まり、6つの迷いの世界のどれかへと生まれ変わって行きます。 これが輪廻転生です。 このように、三途の川を渡ってしまうと、必ず六道輪廻を続けなければなりません。 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道は、いずれも苦しみ迷いの世界で、果てしなく生まれ変わりを繰り返しますので、三途の川に来てしまったらもう手遅れなんです。

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