耳(ミミ)とチャッピの布団

2019/10/29(火)05:09

孤独死と云うコトバ

私は来年、70歳になります。 大阪に在住の70歳以上は地下鉄やニュートラム(モノレール)と大阪シティバスが運行するバスを1乗車50円で利用できる「敬老優待乗車証」の交付が受けられるけど、そんなモンですね、高齢者の優待も。 ご多分に漏れず、着ない衣服や家具、雑貨などどんどん「断捨離」するとともに、「増やさない」生活を続けています。 しかし、世の高齢者の家をTVなんかで見ると、ところ狭しと物で埋め尽くされてる人も多いですね。 今はヨメとふたり暮らし。 息子家族は車で10分くらいのところにマンションを買って生活している。 彼らは彼らの生活があるので、できるだけ世話にならないようにしないと。 私かヨメ、どっちか先に逝って、いよいよ身体が動かなくなったら、今住んでるマンションを売り払って、どっか施設にお世話にでもならないと。 しかし人生の終焉を、気心知れない人たちと同じ施設に入って、知らない人のお世話になるのもなんとなく惨めなものです。 ひとりになったら、今のようにペットを飼えと云う人もいますが、自分が先に死ぬと分かってて、とてもペットを置き去りになんてできません。 施設に入る前に死んでしまったら... どっちみち死んでしまえば、当の本人は何も感じず分からずでど~ってことないけど、その死に方によっては息子たちに迷惑かけることも。 孤独死だけは避けたいですね。 つれあいが健在でも、老々介護で、一方が突然死したために、もう一方も死ぬしかないみたいな孤独死もあるし。 以前にご紹介した益田ミリさんの「言えないコトバ」と云う著書にこんなことが書いてました。 「孤独死」と云うコトバは、一体、どこからどこまでを指しているんだろう? わたしが持ってる「孤独死」と云うコトバのイメージは、身寄りがなく、近所の人とのつきあいもなく、お金もないお年寄りの人が、たったひとりで亡くなっているのを発見されたときのニュースで使われる感じだ。 じゃあ、たとえば、こう云う場合はどうなのだろう? 身よりがなく、近所の人とのつきあいもなく、お金もないお年寄りの人が、たまたま近所のコンビニに出かけたときに亡くなってしまったら? ニュースでは、孤独死と告げるのだろうか? たとえば、お年寄りで、身寄りはないけれど、年金はあり、何駅か先に仲良しの友達が住んでいて、月に2回くらいはドトールでふたりでコーヒーを楽しんだりしているのだけれど、家でひとりでいるときに亡くなってしまった。 発見されるまでに、1週間くらいたってしまった。 ニュースでは、やっぱり孤独死と云われるのだろうか? わからないのだ。 なんかイメージとしては、孤独死する人って、経済的な問題もあるけれど、それより人間関係に問題あるような。 「ゴミ屋敷」で暮らす人々も孤立して暮らしているから、行く先は孤独死なのか... うちはマンションの住民にも仲良しがいるし、まだマシかな? しかし、経済的に枯渇しているのも、結局それが原因で人付き合いも無くなってやはり孤独死に繋がるか。 私のように都会で暮らしている方が、「都会の中の孤独」という逆説的な死様をしそうに思うけど、過疎地の田舎で暮らしている人はど~なんだろう。 隣近所と云っても離れていることが多いし、周囲みんなが高齢者だったらそんなに行き来しないことも。 どっちにしても「セルフネグレクト(自己放任)」だけは避けなければ。 と、云うことは他人に興味もって接することが、結局、自分のためになるってことでしょうね。 先ほど触れた益田ミリさんはこう結んでいます。 ひとつだけ、確実に、孤独死と云いきれる死がある。 子供が親に虐待されて死んでいくこと。 ニュースで見るたびに、これ以上の孤独な死があるはずがないと苦しくなる。 どんなに心細く、どんなに恐くて、どんなに淋しかったことだろう。 子どもは、大人から愛されなければいけないのに。子供の時間は、大切にされるためにあるのに。 わたしは、テレビの前でそんなことを考えてるのだ。

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