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テーマ:猫のいる生活(135999)
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江戸時代のアバンギャルド画家と云えば、伊藤若冲、曽我蕭白に続き応挙門下の長沢蘆雪があげられますね。
下級武士の子として生まれ、淀(京都の)で育った蘆雪は、京の円山応挙のアトリエに通って絵の手ほどきを受けました。 蘆雪は1754年(宝暦4年)~1799年(寛政11年)まで生存したと云いますから、54歳でその生涯を終えたことになります。 その死が不審なんですね。 毒殺とも自殺とも言われ、少なくとも普通の死ではなかったとされてます。 毒殺説では淀藩主の寵愛ひとかたならぬ上、我ままな振る舞いが多いので藩の誰かに毒殺されたと云う説や、土佐藩主が蘆雪の名声を聞いて、藩の画工に命じて自藩に迎えさせようとしたところ、この画工が嫉妬して大阪で蘆雪を芝居に誘い、弁当に毒を仕込んで殺したなどさまざまです。 事実は不明です。 なぜなら、蘆雪には1人の息子があったのですが、幼死し、弟子の蘆洲が跡取りとなりました。 その蘆洲が義父の生涯を一代記のかたちでまとめたものを認めてたのですが、維新の際、兵火で消失してしまったからです。 蘆雪は応挙に破門されたことがあります。 応挙に描いてもらった画手本をそのまま持参して直しを乞うたところ、これはよろしくないと少し直されました。 そこで今度は画手本を無視して、自分で清書して持って行ったら、これでよろしいと云うことになった。 このことがバレて破門されたのです。 あるとき淀藩主に招かれ、庭先で独楽の曲芸を演じてる最中、高く放った独楽が落ちてくるのを受け損じ、眼につき刺さってしまったのです。 たちまち鮮血がほとばしり出るのをしりめに、平然として芸を続けようとしたのですな。 さすがに近侍が無理に独楽を取り上げて止めさせました。 しかし彼は、このことによって片目を失ったと云う。 画家としてはゆゆしきことです。 蘆雪の画にはたくさん、ワンちゃんを描いたものが残っているのですが、ど~見てもポメラニアンらしきワンちゃんも。 タイタニック号が沈没したとき生き残った犬が3頭いますが、このうちの2頭がポメラニアンでした。 しかしポメラニアンが日本に初めて輸入されたのは明治末期の頃と云いますから、このワンちゃんは何? 「四睡図」 四睡図とは、豊干禅師と寒山、拾得、それにトラが一緒に寝ている姿を描いた禅画です。 なんと云う存在感! 晩年になって蘆雪の画に変化がおこってきます。 それまで見られなかったグロテスクな作風が目立ってくるのです。 先ほどの「四睡図」がまさにそれで、太線のない、蟯虫を思わせる線状ののたうちまわりや、豊干禅師の静脈を塗り残して浮き出させているところに一種の不気味さがあります。 「大仏炎上図」は寛永10年に京都東山の方広寺大仏殿が落雷消失した折の印象をスケッチ風に描いたものですが、淡い朱であらわされた火焔に鬼火のような妖気があります。 さらに、厳島神社の「山姥図」にいったては、漱石の「草枕」のなかで触れられており、江戸のグロテスク絵画の傑作として定評があります。 蘆雪の全作品のなかで、もっとも劇的な緊張感のある作品。 老醜のすさまじさ、いやらしさをこれほどまで正攻法で描き出した日本画は他にないと云われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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