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テーマ:猫のいる生活(136005)
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ビージーズ(BEE GEES)のディスコ・サウンドで彩られたジョン・トラボルタの出世作「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本公開されたのは1978年。
日本ではこの映画の影響でディスコ・ダンスで踊り、熱狂することを「フィーバー」すると云うようになりました。 それが転じてパチンコで大当たりしても「フィーバー」と云う言葉が使われるようになったのですね。 私がタイに居を移したのが1971年ですから、それより前に東京ではもうディスコが開設されていたのですね。 そのムゲンが開店した同じ年、同じビルにディスコ「ビブロス(BYBLOS)」もオープンします。 こっちは日本で初めてドレスコードを設けた会員制のディスコです。 赤坂にあったこの2店が、いわゆる日本でのディスコのはしりなんですね。 「ムゲン」は欧米で流行していたサイケな色調の空間でライブハウスも兼ねていたそうです。 レコードではなく黒人バンドによる生演奏が特長で、作家の三島由紀夫や澁澤龍彦、安井かずみ、丹下健三、小沢征爾、横尾忠則、篠山紀信、三宅一生も常連だったとか。 ムゲンは世界中の雑誌で特集され、アメリカ映画の舞台となり、国連選定の「世界の動く7ヶ所」の1つにも選ばれました。 ムゲン内には当時、人気を誇るトップモデルの青木エミのショップ「EMIE」もあり、こちらも話題になりました。 そんなムゲンの華が女優の"加賀まりこ"です。 加賀まりこは高校時代、六本木「キャンティ(CHIANTI)」にたむろして「六本木族」と呼ばれてました。 キャンティはご存じのイタリア料理店ですが、当時午前3時まで営業しており、放送、芸能関係者から、政財界人に連れられて来る赤坂や銀座のホステスまでが来店して深夜に賑わった店です。 開店当時、六本木には在日米軍兵舎があり、アメリカ文化に惹かれる若者(六本木族)が集まるようになったのですね。 加賀まりこはまだ子供だったので、キャンティで遊ぶお金を稼ぐためにモデルのアルバイトをして、コーヒー1杯で閉店までねばって大人の話を聞いていたそうな。 そんな加賀まりこも1962年には映画デビューしているし、1965年に出演した映画の原作者が川端康成で、その後、川端とつきあってたと云いますからムゲンのような高級なとこに出入りしてたのでしょうね。 「ビブロス」はドレスコードがあってスタッフ(黒服)が入口で服装チェックを行っていましたが、明確な判断基準はなくスタッフのセンスに委ねられてたようです。 しかし、この服装チェックは、なかなか関門突破できないことで有名だった。 ビブロスの特徴は、ソウルからディスコ、ポップス、ロックまで、ひとつのサイクルでまわしていることでした。 ディスコサウンド、ポップスからロックへと盛り上がり、そして静かなチークタイム、そしてまたディスコへもどる繰り返しだったのですね。 つまりどんな音楽趣味の人が行っても、必ず楽しめたのが人気が高かった理由です。 当時は海外アーティストの来日ラッシュでした。 ビブロスは海外ビックアーティストが来日公演の際に必ずと云ってよいほど、お忍びで立ち寄るクラブハウスでした。 また各国外交官など日本在住の外国人や観光客も多く、それとともに日本の芸能人も多く出入りして、それを狙ってグルーピーの女性たちも多数出入りしてたのです。 グルーピーと云うのは超派手で目立つ恰好をして有名人と"親密さ"を求める女性たちです。 映画「あの頃ペニー・レインと」にグルーピーが詳しく描かれています。 ちなみに当時のディスコファッションは、ヨーロピアンコンチと云うものが流行りました。 パンタロンスーツや、ぶっといバギーパンツ、これにアフロヘアにサングラス、ロンドンブーツなどがトレンドだったのです。 ビブロスに来店した有名人は数限りなくいますが、主だったものだけでも、デビッド・ボーイやロッド・スチュアート、ロバート・レッドフォード、アンディ・ウィリアムス、レイ・チャールズ、シャルル・アズナブール、パット・ブーン、バート・バカラック、エルトン・ジョン、アート・ブレーキー、ベイ・シティ・ローラーズなど枚挙にいとまがありません。 そしてデヴィ夫人もビブロスの顧客のひとりでした。 当時、デヴィ夫人は赤坂の超有名高級クラブ"コパ”こと「コパカバーナ」のホステスさん。 インドネシアのスカルノ大統領と出会ったのもここです。 この「コパカバーナ」と「ニューラテンクォーター」が当時の超高級クラブの双璧。 ニューラテンクォーターってのは1982年に起きた火災で33人が亡くなったホテルニュージャパンの地下にあったナイトクラブですね。 ここで力道山が刺されて、その傷がもとで数日後に亡くなっています。 ここもとてつもなく値段の高いクラブで、1夜遊ぶだけで一般サラリーマンの1ヶ月以上の給料が飛ぶと云われてました。 勝新太郎や石原裕次郎、中村錦之助、三船敏郎など映画スターや歌手から一流企業の幹部、政治家、皇族に至るまで顧客だったお店です。 さて当時、私は東京から遠く離れた一地方都市の大坂在住です。 そんな高級クラブや高級ディスコなんてどこ探しても見当たらない時代。 大阪は中央区の「ミス大阪」とか千日前の「ユニバース」とか京橋の「香蘭」とか、要するに巨大キャバレーしか見当たらへん。 なんせミス大阪なんて、2フロア300坪の規模に約200人のホステスさんですから、いかにも大阪らしい。 オバケみたいな顔とスタイルのホステスさん多かったけどね(笑) そんなですから、東京のそれも赤坂なんて全く無縁の世界。 そして大阪万博が開催された翌年には毎日放送を退社して、タイへ飛んで行ったので日本のディスコもクラブも全く縁がなくなったワケです。 で、私のヨメはと云うと、当時勤めていた会社の社長に連れられて「ムゲン」とか「ニューラテンクォーター」にも出入りしてたらしい。 サスガにコパは行った記憶がないと云ってました。 1971年に六本木に日本で初めてレコード演奏のみで営業したディスコ「メビウス」が開店しました。 ここは生バンドの出演料を抑えるためにレコード演奏に徹したのですが、現在のディスコスタイルのモデルとなったのですね。 メビウスはダンスフロアを囲む様な椅子席の「ホットコーナー」をはじめ「対座」、「カウンター」、サパーコーナーの「クールコーナー」に分かれていました。 斬新な「球型DJブース」は、ダンスフロアの中にあり、DJが常に注目を浴びるような造りになっていました。 壁面は鏡張りでスライドが映し出され、幻想的な雰囲気だったらしいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
ムゲンもビブロスもパパゴリラ!の世代より上の方々ですね。
まったく無縁な世界でした。 パパゴリラ!は高校生の時、グランドキャバレーに出演しているバンドで、ギターの修業をさせてもらってました。それでも日給2500円もらったと思います。 その後は、キャバレーハワイとかロンドンとか日の丸とか、ドキドキしながら通った記憶があります。 (Nov 16, 2019 08:57:42 AM)
こんばんは
70年代後半から80年代なかばもディスコブームのときはラジオ聴いていてもディスコミュージックがよくかかっていたのを覚えています 加賀まりこさんと川端康成氏が付き合っていたというのは意外な感じがします (Nov 16, 2019 05:02:13 PM)
すごい面々の名前ですね。
でも、ここで出てきたディスコや、高級クラブ、全く知らないです。 勤めていた頃には、こちらには、大きなキャバレーがありましたが、名前も知らないです。確かあったはずってだけです。 縁がないね~~。 (Nov 16, 2019 09:46:41 PM)
私が東京でOLをしていた時、
務めていたのは八重洲でしたが、本社が赤坂だった為 よく地下鉄の赤坂見附で降りて東急ホテルの前を通って 行っていました^^ たぶんあそこが「ムゲン(MUGEN)」だったのではないかな? と思えるお店へ同僚と行ったものの中へ入らずに 終わったことがありました。 (Nov 17, 2019 06:30:01 AM) |