耳(ミミ)とチャッピの布団

2021/04/27(火)05:17

日本ラグビーの起源

ラグビートップリーグの試合が始まりましたね。 私がこのブログを始めた頃からのお友だちで、今はFB(フェイスブック)で活躍されてる方に石見一女さんと云う方がおられます。 ご自身で起業されてて、とってもアクティブでチャーミングな方なんですが、この方の甥御さんがラグビーのキヤノンイーグルスの庭井祐輔選手なんです。 一昨日はトップリーグのNTTとの試合で完勝しました。 そんなワケで私も陰ながら、庭井選手の応援をずっと続けています。 庭井選手は2016年からずっとキヤノンイーグルスの主将を務めているのですよ。 日本にラグビーが広まったのは1899年(明治32年)に慶応義塾大学に赴任してきた英語教師E・B・クラークが学生たちに伝え、慶應義塾體育會蹴球部が誕生したのがきっかけと云われていますね。 ケンブリッジ大学のラグビー選手であったクラークは 、同じケンブリッジで学んだ友人、田中銀之助と共に慶應義塾の学生にラグビーを教えたのです。 慶応義塾の日吉キャンパス内に「ラグビー発祥の地」記念石碑があります。 日本人によるラグビーの発祥はそうなんですが、それ以前から外国人同士のラグビーの試合が横浜で行われていたのですね。 横浜の外国人居留地に滞在していたイギリス駐屯地兵と外国人住民によって構成されたチーム「横浜フットボールクラブ(現YC&AC)」は、1866年(慶応2年)創設です。 2015年にイギリスの「世界ラグビー博物館」によってアジア最古のラグビー・クラブであると認定されました。 みなさんは歴史に名高い「生麦事件」をご存知ですよね。 幕末の文久2年(1862年)武蔵国橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久父 島津久光の行列に騎馬で乱入したイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷した事件です。 行列が生麦村に差しかかったとき、4人の騎馬のイギリス人と行き会いました。 横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたW・C・クラーク、横浜の生糸商人W・M・マーシャル、そしてその従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたM・ボロデール夫人、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたC・R・リチャードソンの4人です。 行列の先頭の方にいた薩摩藩士は、行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るよう云ったのですが、「わきを通れ」と云われただけだと思いこんだのですね。 ところが行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだために、薩摩藩士数人が殺しにかかったのです。 この事件でリチャードソンは落馬して、とどめを刺されました。 他の男性2人も深手を負いアメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込み助けを求めています。 結局、無傷だったのはボロデール夫人だけでした。 1853年には「黒船来航」でペリーが浦賀に来て日米和親条約を結んで鎖国をやめさせると、横浜は外国人に向けて開かれ、護衛のために少人数の軍隊も送られていました。 生麦事件後は日本に住んでるイギリス人護衛のために、より多くの軍人が派遣されることになったのです。 生麦事件に始まった外国人排斥の動きは加速し、翌年には江戸幕府が外国人に日本から退去するよう求めるまでに至りました。 この日本在住のイギリス人とイギリス海軍がラグビーをしていたと云う新説があるのですね。 1863年のことと云いますから、1866年の「横浜フットボールクラブ」創設の話より以前のことです。 それは外国人の退去期限の翌日に行われたと云います。 当時、ラグビーは「フットボール」と呼ばれていましたが、1863年にはフットボールとクリケットの試合が行われたようです。 ところが試合中に日本人から攻撃を受けるかもしれないと、選手たちが武器を持って試合を行ったのですね。 そんな文献が残っていて「ウィケットキーパー(捕手)はピストルを持っていた。それをウィケットの後ろに置いて、アウトを6回取った」と。

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