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テーマ:猫のいる生活(135989)
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EVカー、電気自動車のことですな。
ガソリンで走行するワケぢゃないので、CO2や窒素酸化物が出ないゼロエミッション車ですが、その充電に使う電気、わが国の発電は石油6.3%、石炭が31.0%、液化天然ガスが39.0%で、化石燃料による火力発電が76.3%。 せっかく日産が軽のEVカーを開発しても充電スポットの拡充と発電をもっとエコにしないと、下流を改善しても、上流がますます悪くなるワケです。 しかもプーチンのウクライナ侵攻による経済制裁でロシア産の原油が入ってこないのがど~影響してるのか、あんだけEVカーを推し進めていた中国が水素燃料電池自動車と水素ステーションの開発にも触手を伸ばしてると報じていました。 燃料電池自動車と云えばトヨタが先行してるので、トヨタ車の導入も盛んだとか。 電気自動車にしても、燃料電池自動車にしても、近年開発された技術のように思いがちですが、日本では第2次大戦終結から2年後の1947年(昭和22年)には電気自動車がありました。 それも実験車ではなく、実用車として特にタクシー車両で1951年ごろまで人気があったのです。 戦後ほどなくして電気自動車を開発するなんて、日本はえらい先進的やなぁ! と考えるのは早計で、これには敗戦国日本の止むに止まれぬ理由があったのです。 当時の日本は石油、物品、食料の深刻な不足に苦しめられていた一方で、電力に関しては山間部の水力発電所からの電力供給は滞りなく行われていたにも関わらず、電力を大量に消費する工場などは空襲で操業不能に陥っていた上に、家電が少なく、一般家庭で電力の大量消費者がほとんどいなかったため、電力供給に余裕があったからなんです。 開発された電気自動車の名前は「たま電気自動車」。 太平洋戦争期に陸軍の航空部隊用に軍用機を製造していた「立川飛行機」と云う会社があります。 この立川飛行機が敗戦で航空機製造を禁じられた上、GHQの指令で企業解体されたため、技術者の外山保、田中次郎ら関係者約200名で立ち上げられた会社が「東京電気自動車」。 1949年に社名変更して「たま電気自動車」に改名したのですね。 「たま」は工場が東京北多摩郡の府中刑務所隣、日本小型飛行機グライダー工場跡で活動を始めたところから来てます。 この「たま電気自動車」が後の初代スカイラインや初代グロリアを発売したプリンス自動車工業、そしてプリンス自動車工業が経営不振に陥り日産自動車に吸収合併されたのです。 プリンス自動車工業の"プリンス"は、当時の皇太子明仁親王(現 上皇)が立太子礼を行うことから、これを記念してつけられた社名です。 この「たま電気自動車」は、世界で初めて量産された電気自動車でした。 車体には日立製作所が製造したモーターと湯浅蓄電池(GSユアサ)が製造した鉛電池を搭載してました。 初期の製品は走行距離96km 、最高時速35km/h でしたが、1949年発売のセダンタイプ「たまセニア号」は1回の充電で200km の走行が可能なくらい性能がアップしてます。 電気自動車の製造を辞めて、ガソリン車にシフトチェンジしたのは、1950年の朝鮮戦争勃発が原因でした。 この戦争で、バッテリーの主要原材料「鉛」が高騰したからです。 加えて、この時期にはガソリンの供給状況が改善へ向かったためでもあったんですね。 「たま電気自動車」の優れたところは、ホイールベース間のシャーシを部分的に切り欠いて、電池ケースを側面からスライド脱着できるようにしたことです。 新しい充電電池を使ってる間に、消耗したバッテリーの充電をする仕掛けだったのですね。 後にバッテリー性能があがると、この着脱式を止めて、現在のEVカーのような固定搭載式に変更されました。 この「たま電気自動車」の布石があったからこそ、日産はEVカー「リーフ」の開発にこぎつけられたのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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