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テーマ:猫のいる生活(141006)
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黒澤明が監督した1954年映画「七人の侍」で、セリフなしの浪人役を務めたひとりの俳優。
俳優座養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演の名もなき俳優のタマゴでしたが、時代劇の歩き方ができなかったため黒澤から「歩き方が変だ」と罵られ、ワンカットに朝の9時~午後3時まで半日がかりの撮影となってしまい最後は黒澤がサジを投げる感じで「いいや。OK」となった人です。 同作品で同じように俳優座養成所から派遣された宇津井健はすんなりOKでました。 ![]() ![]() それは俳優座を観劇したとき、創立メンバーのひとりで、亡くなるまで同座代表を務めた"千田是也(せんだ これや)"の演技に感銘を受けたからです。 千田是也はTVドラマの出演がほとんど皆無に等しいのでご存じない方もいらっしゃるでしょうが、1940年代~1970年代まで約100本の映画に出演している名優です。 千田是也と云う芸名の由来は、1923年9月1日の関東大震災の時、住んでいた千駄ヶ谷で自警団に加わっていたところ朝鮮人に間違われて暴行を受けた。 後に朝鮮人が襲撃してくると云う噂は政府や軍が流したデマだと知り愕然としました。 その体験を元に自分もデマに乗せられることがないようと云う自戒の想いを込めて、千田是也=「センダガヤのコリア」という芸名にしたと云います。 ![]() その不器用な俳優のタマゴは後に出演作品がアカデミー賞とカンヌ、ヴェネツィア・ベルリンの世界三大映画祭全てで受賞している映画界を代表する俳優となった男です。 "仲代達矢"。 仲代の父親はバスの運転手でしたが、仲代8歳のとき結核で亡くなり、母親は洋服店の飯炊きや青山の弁護士事務所に住み込みで働くような貧困の家庭に育ちました。 高校も競馬場の切符売り、パチンコ屋などのアルバイトをしながら都立高校の定時制を出ています。 なので「七人の侍」出演当時もバーで働きながら役者修業に励んでましたが、そもそも観客が限られる新劇畑です。 困窮する生活は変わらなかったのですね。 養成所時代は夜遅くまでパチンコ屋でアルバイトすることも多く、アパートに戻ると午前3時。 9時には養成所が始まるので、ほとんど寝られない。 お金がないので渋谷駅から東京・六本木にある俳優座まで毎日走ったのですが、これが舞台俳優に必要な体力つけに効果あったとか。 俳優座養成所の同期には宇津井健の他 佐藤慶、佐藤允、中谷一郎などがいます。 ![]() 宝塚少女歌劇団時代、その類い稀れな美貌で娘役スターとなり活躍した月丘は、仲代の舞台「幽霊」を見て「あの人、誰?」と目に留めたのが仲代の映画人としてのスタートと云っていいです。 彼女が主演する「火の鳥」で生意気な青年役を探していたので、仲代を紹介してくれたのですね。 「準主役に抜擢という形で映画俳優への道を拓いてくれた月丘さんには一生、足を向けて寝られないです」と仲代は話してます。 仲代と月丘は1974年の山崎豊子原作 映画「華麗なる一族」でも母と息子役で共演してます。 ![]() 撮影だけで1年半に及んだこの作品で、仲代は監督の小林正樹も感服する演技を見せ、小林に「まさに天才」と云わしめました。。 この作品全作を一挙に上映したことが、日本の映画館のオールナイト興行の走りと云われてます。 戦闘シーンは北海道の自衛隊演習地内で、陸上自衛隊の協力のもと撮影されました。 登場する九九式短小銃は、自衛隊から貸し出された実銃が使用され、射撃の場面では空包を使用してるのですね。 ![]() 三船敏郎に対抗できる敵役俳優として「用心棒」出演要請がまた黒澤からきたときも、最初はきっぱり断ってたのです。 そしたら黒澤本人から呼び出しされて説得されたのですね。 それで出演することにし、三船演ずる桑畑三十郎と対決する新田の卯之助と云うヤクザを演じて好演技を見せました。 ![]() そうして1980年の「影武者」、1985年の「乱」と黒澤作品になくてはならない主演俳優の地位を確立します。 黒澤は仲代のスケジュールが空くのを待ってでも出演してほしいと、映画製作のスケジュールを変更するほどでしたからよほど心酔してたのでしょう。 映画「椿三十郎」で三船敏郎と最後の対決する仲代達矢 加山雄三若かりし時代の作品ですね。 仲代は特定の映画会社と契約してなかったのでいろんな会社の作品に出演してます。 1962年(昭和37年)公開の松竹映画「切腹」ではキネマ旬報で仲代が主演男優賞を受賞、1966年(昭和41年)公開で岡本喜八が監督した東宝映画「大菩薩峠」、同じ東宝で1969年(昭和44年)にこんどは五社英雄が監督した「御用金」、1969年(昭和44年)勝プロダクションが制作して配給は大映の「人斬り」、1975年(昭和50年)に吉永小百合が共演した五木寛之原作の「青春の門」は東宝作品、同年公開された山本薩夫監督の「金環蝕」は大映作品。 池波正太郎原作で1978年(昭和53年)の「雲霧仁左衛門」は松竹と俳優座の共同制作。 宮尾登美子原作で1982年(昭和57年)に東映で公開された、夏目雅子のセリフ「なめたらいかんぜよ!」で大ヒットした「鬼龍院花子の生涯」。 1984年(昭和59年)の五社英雄監督作品「北の螢」は東映と俳優座製作と多種多様ですが、こうして見るとスゴイ作品ばかりですね。 ![]() ![]() ![]() そんな仲代が妻の宮崎恭子と共に俳優養成所「無名塾」を立ち上げたのは1975年(昭和50年)。 この創設のために仲代は俳優座の看板俳優の座を捨ててます。 この塾出身俳優には役所広司や真木よう子など名だたる面々が。 妻の宮崎は1996年(平成8年)、ガンで亡くなってます。 仲代達矢は今年92歳になります。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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