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耳(ミミ)とチャッピの布団

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May 14, 2025
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今は時代劇映画をほとんど上映しないので、とりわけ若い方はご存知ないでしょうが、寛永11年(1634年)と云うと徳川家光が第3代将軍だったときの話。
今で云う三重県伊賀市の鍵屋辻(かぎやのつじ)と云うとこで凄まじい仇討ちがありました。
このとき柳生流の達人"荒木又右衛門"が仇討ちを主導して、敵方36人を斬り殺したと云うのですね。


この話は武士道や主従関係が重視された江戸時代にあって、曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちのひとつとして、歌舞伎や浄瑠璃、講談などの題材となり大衆の人気を集めました。
しかし実際には又右衛門は36人も切ってません。
そんな人数、敵にいなかったのですし、いくら鋭利な日本刀でも36人も切ったら刃がボロボロになってしまいます。
忠臣蔵と同じように封建倫理の好材料で、又右衛門がスーパースターになるため「36人斬り」が必要だったので誇張された話なんですな。
そもそも、ナゼ又右衛門が仇討ちを行ったのか?
もともと又右衛門が主役の仇討ちではなかったのです。
備前岡山藩の家臣に渡辺数馬という者がいて、寛永7年(1630年)(寛永7)数馬の弟源太夫が同藩士 河合又五郎に殺されると云う事件が起こるのですね。
数馬は又五郎の父 半左衛門に引渡しを求めましたがトーゼン応ぜず、又五郎を江戸に逃がし、安藤治右衛門や久世三四郎ら旗本衆がこれを匿ったのです。
これによって外様大名と旗本らの争いに発展しました。
そこで数馬は仇討ちを画策し、江戸や京都など東海道を行き来して又五郎を探索します。
ところが数馬には大きな問題が...
剣の腕に自信がないのです。
そこで数馬は姉婿で剣術の達人でもある又右衛門に助太刀を依頼したと云うのが成り行きだったのですね。
そしてついに数馬は又五郎が江戸に向かうため宿をとったのを探知します。
寛永11年(1634年)11月7日、伊賀上野城下の入口にある鍵屋の辻で決闘が行われたのです。
数馬の方は渡辺数馬と荒木又右衛門、数馬若党の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人でした。

対する又五郎側は桜井半兵衛や虎屋九左衛門ら11人。
そうとう多勢に無勢ですね。
仇討は早朝からおよそ6時間に及び、死者は数馬側が1人、又五郎側が又五郎を含め4人でした。
6時間もかかったのは、双方とも疲れ果ててなかなか対決とはいかなかったかららしい。
又右衛門の従者として仇討に加わり数馬側で唯一亡くなった河合武右衛門の墓が伊賀市の念仏寺にあります。


見事本懐を遂げた数馬と又右衛門、特に実質仇討ちを主導した又右衛門は賞賛を浴びます。
生き残った3人は彦坂嘉兵衛に引き取られた後、藤堂式部さらに藤堂出雲守に預けられました。

しかし藤堂家に預けられているとき、藤堂家の家臣で新陰流を修め、戸波流を興した戸波又兵衛親清は「大切なときに折れやすい新刀を用いるとは、不心得である」と批判してます。
これは又右衛門が又五郎側の桜井半兵衛を倒したとき、又五郎側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきて、又右衛門は腰に一撃を受けたのですね。
さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたが、刀身が折れてしまったのです。
折れた刀は伊賀守金道とも和泉守金道とも云われてますが、どちらも慶長以降に作刀された新刀で折れやすかったのですね。
それを戸波又兵衛親清は詰ったのです。

これを聞いた又右衛門は不覚を悟り、寛永12年(1635年)、数馬を伴って戸波流に入門してます。



















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Last updated  May 14, 2025 05:13:22 AM
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