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テーマ:猫のいる生活(141702)
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東京に住んでなくても、全国区で有名な繁華街「新宿歌舞伎町」。
酔っ払いによるトラブルや風俗店の客引き、そして「トー横」の家出少女などマイナーなイメージが強いけど、深夜までいなければ飲み食べ歩きや東急歌舞伎町タワーとか普通に観光するのに支障のない街でもありますね。 ![]() ![]() そんななか、戦後復興のキーマンになったのが、当時、歌舞伎町町会長だった鈴木喜兵衛です。 彼は終戦からわずか5日後に復興計画を立案します。 それは「道義的繁華街」つまり歌舞伎町に人々が集まり、楽しんでもらうための街として生まれ変わらせることでした。 鈴木喜兵衛は海外から人を呼び込み、日本の良さを感じてもらう必要があると考えました。 新宿に歌舞伎の劇場をつくるなどエンターテインメントの街として発展させることで、今でいうインバウンドのムーブメントを起こそうとしたんです。 歌舞伎劇場をつくる計画は資金面で頓挫しますが、それが「歌舞伎町」と云う名前の由来なんですね。 ![]() ![]() 明治時代、歌舞伎町はあたり一面が森に囲まれた湿地帯でした。 そこに肥前国(長崎)大村藩の子孫の別荘があったことから「大村の森」と呼ばれていたのですね。 大村の森には鴨猟をするための鴨池がありました。 ![]() 尾張屋銀行は、もともと「尾張屋」と云う質屋の金融部門が独立したものです。 尾張屋は、江戸時代に質店と古着商を営んでいました。 江戸時代には際立った資産家という程ではなく普通の質屋だったのですが、3代目茂兵衛の三女で、亡姉の入婿4代目茂兵衛の後妻となり、明治9年に夫が71歳で没した後、5代目当主となった43歳の女性がきょうのメインテーマ。 名前を峰島喜代(ミネシマ キヨ)と云います。 ![]() 明治になると侍の時代が終わり、武士は士族と改められ、幕府や藩から石高に応じた給与は政府から引き続き支払われてました。 ただ自主的に秩禄を返納する者は、起業資金を与える目的で「秩禄公債」を発行。 しかし所詮は「武士の商法」、商売しても失敗するもの続出。 多くの士族は生活に困窮し、難を逃れるために公債を売却するのです。 その公債を買い集めてたのが尾張屋、つまり峰島喜代だったのです。 また1877年(明治10年)に起こった、西郷隆盛ひきいる薩摩藩の士族と明治政府の間で行われた「西南戦争」の資金をかき集めるために、政府は大量の公債を発行し続けたのですが、発行し過ぎて公債の価値が大暴落。 それを尾張屋は買い漁り、やがて相場が急騰すると一気に売却。 このとき尾張屋が得た利益は150万円、現在の価値で600億円もの巨額だったのです。 ![]() 最終的に20万坪以上の土地を所有して、東京で1、2を争う大地主となってました。 そうした土地のひとつが「淀橋区」、現在の歌舞伎町1丁目なんです。 森と沼に覆われた湿地帯でしたが、1879年(明治12年)にコレラが流行してたので政府としては水質の改善が急務。 それで現在の都庁がある辺りに淀橋浄水場が完成するも、大量に掘り出した土の行場が見つからない。 峰島喜代の提案で、その土を利用して淀橋区=歌舞伎町の沼を埋め立てたのです。 こうして淀橋区は沼からチャンとした土地になり、それが歌舞伎町の街となって行くのですね。 ![]() 車は使わず、どこに行くにも徒歩と電車で移動と云う生活。 ぢゃあ、よくある金持ちなのにケチケチ人生送ったのかと云うと、そうではなさそうな。 女子教育を強化したいという思いから東京府に歌舞伎町の土地の一部と10億円にのぼる資金を提供して女子教育のために役立ててほしいと遺言を残したのですね。 そうして「東京府立第五高等女子学校」が設立されたのは1920年(大正9年)。 峰島喜代が亡くなって2年後のことでした。 東京府立第五高等女子学校は戦災で校舎が消失した後、中野区弥生町に移転し、東京都立富士高等学校に改称されました。 ![]() 特に昭和に入ると歌舞伎町は高級住宅地として大発展。 関東大震災後には下町から移住する人が増え、より一層活気づきました。 それもこれも峰島喜代と云う尾張屋5代目当主が成した功績によってだったのですね。 ![]() 当時倒産する銀行も多かったなか、尾張屋銀行は引き出しに全て応じ、尾張屋グループの信用は逆に上がったと云います。 その後、倉庫事業に進出し、中堅物流会社「丸八倉庫」として成長を続けました。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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