カテゴリ:poincare ~ポアンカレ ~
◆小説のあらすじ・登場人物◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 病院を出る頃には、もう昼を過ぎていた。 「やだ、お昼ご飯、とっくに来てる時間じゃない。もう冷めちゃってるかも」 ロビーの壁に掛けられた時計を見て、紗英は慌てて立ち上がった。 「そろそろ部屋に戻るね」 「ああ、それじゃあ、またな」 紗英はホスピスへと続く通路の方に、僕は紗英とは反対に、正面玄関へと向かった。 紗英が笑ってくれてよかった。 開きかけた自動ドアの隙間から冷たい外気が流れ込むのとほぼ同時に、ロビーの向こう端で紗英が大きな声でこう言った。 「吾朗ちゃん、また来てよ。絶対だよ」 その声は外からの光が反射する真っ白なロビーに、明るく響き渡った。 僕が事実を知ってしまったことで、紗英を余計に傷付けてしまうのであれば、いっそこのまま会わない方がいいのかもしれないとも考えていた。 だが、会いに来てよかった。今はそう思えた。 辛くない訳がない。紗英が無理をしているのは痛いほど伝わってきた。 それでも心に突き刺さった尖った氷柱(つらら)のような現実が、僕たちの体温に温められ、ゆっくりと溶け始めたのは確かだった。 昔の彼女だから、妹だから、そんな理由などどうでもいい。坂下が願っていたように、僕も紗英を呪縛のようなものから少しでも解放してやりたい。残された時間があとどのくらいあるのか分からないが、きっとまだ何かできることがあるはずだから。 そんな僕の顔を見て、くるみもまた安心したように笑みを浮かべた。 「いつもの吾朗君に戻ったね」 紗英との関係が変わったように、僕とくるみの関係にも変化があった。 一度離れてしまった距離は縮まってこそいなかったが、それぞれの場所からお互いの顔を自然に眺めていられるような、そんな雰囲気が漂い始めていた。 もう未練はないと言えば嘘になる。だが僕には、お互いの関係をどうこうする余裕はまだなかった。それはくるみも察してくれていたと思う。 ただ何となく、今はこのままがいい、二人ともそう思っていた。それが一番無理のないカタチだと、僕たちはお互いに感じていた。 くるみを送って一人になってから、僕は紗英が病院で言った言葉を思い出していた。 「現実はいつだって、私には冷たかった。でもどんな状況の中でも、夢を見ることは誰にでも許されていることだから。一つ駄目になったらまた新しく、そうやっていつも夢を見ながら、明日に繋いできたの」 子供の頃は父親のいない寂しさを抱えてきた紗英。その父親が見つかった途端に、突き付けられた残酷な事実。 そこから立ち直り、幸せな家庭を築いていたところに、今度は早過ぎる母親の病死と自分の病気。 「お母さんがまだ入院してた頃ね、体調を崩しちゃった時があって、最初は看病疲れかなって思っていたんだけど、琢人に話したら、検査を勧められてね。検査の結果、お母さんと同じ薬が処方されたの」 母親の葬儀や実家の後片付けなど一通り済んだら、紗英は病気のことを夫に話すつもりだった。そのことを知った上で、本当は最後まで自分のそばにいて欲しいと願っていた。 だが紗英を待っていたのは、思いもしない悪夢だった。夫の浮気、そして相手の女性の妊娠。 「私たちには子供がいなかったし、いっそここで別れちゃった方が、あの人も私のことで悲しまずに済むのかなぁって。別れればあの人は相手の女の人と一緒になれるし、そうしたら生まれて来る子供も幸せになれるんじゃないかな、って思ったんだ」 自分の夫と浮気相手の女性との間にできた子供の幸せ。それすらも紗英の夢の一つだった。紗英自身が同じ立場の子供だったから。 そう言えば、親父が死ぬ前に母さんが見付けたあの通帳。母さんにも内緒で、親父はかなりの額を貯め込んでいた。最期まで何のために貯めていたのか親父は口を割らなかったが、あれはひょっとすると紗英の母親と紗英のためのものだったのかも知れない。 「優しいと言うより、気が弱い人なのよ。喧嘩にもなりゃしない」 不器用な親父の優しさを、母さんはいつもそう言って笑っていた。 野球が好きで、スタジアムで試合があると、よく連れて行ってくれた。 僕が地元の少年野球のチームに入ってからは、試合の時はいつも応援に来てくれた。初めてホームランを打ったあの日。試合が終わってから母さんが作ってくれた弁当を、家族三人、陽だまりの中で囲んで食べた。 何やってたんだよ、親父。 僕はどうしても、親父の不倫を家族への裏切りだとは思いたくなかった。そう思うことはできなかった。捨てることのできない愛情と、捨てるしかなかった恋心。僕や母さんを大切にしてくれた親父の、男としての苦しみはどれほどのものだったのか。恋愛を遊び事でできるような小狡さは、欠片も持たない人だったから。 信号待ちをしている僕の車の前を、どこにでもいそうな家族が横断歩道を渡って通り過ぎて行く。小さな女の子を肩車している父親。その隣には母親が、肩車された女の子より少し大きい男の子と手をつないで歩いていた。 男の子の空いている方の手には、しっかりと一本の糸が握られていた。真っ直ぐに空に向かって伸びるその糸の先には、空よりもずっと青い風船が、乾いた冬の風の中で弾むように揺れていた。(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○
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